江戸期の盛岡南部氏はここ甲斐の南部の地から北奥へきたのはたしかだが、同氏の家伝による鎌倉初期の建久2年(1191)という年代は不確かなものらしい。 その南部町の中心部むかう国道52号線と並行して流れる富士川はさすがに広く、また身延線の走る左岸も右岸も山がせまっている。ここにくらべれば、南部氏が長く拠点とした青森県の三戸・八戸地域の方がはるかに土地の広大さを感じられる。 富士川は「川丈十八里」といわれ、江戸期の南部の地は甲斐の鰍沢(かじかざわ)へ九里、駿河の岩渕へ九里あり舟運上の要地として栄えたが、国内有数の急流のため橋は架けられず、また「橋の墓場」ともいわれた。 冨栄橋でわたった富士川を南部橋でふたたび左岸にもどり、内船(うつぶな)駅に立ち寄った。 無人駅だが、けっこうな大きさのある駅舎のまえに立てられた案内板をみると、南部氏の旧跡はもういちど南部橋をもどらなければならなかった。 やや高台になっている諏訪神社から浄光寺・妙浄寺にかけての道をそぞろ歩きすると案内板がもうけてあり、そこには「やまなしの歴史文化公園 南部氏の郷」とあった。妙浄寺にあったそれには、南部氏の菩提寺であったことなどが記されている。 <南部町周辺案内板から> <富士川に架かる南部橋> <南部氏旧跡案内板から> 波木井(はきい、はきり:羽切とも)は北にとなりあった南巨摩郡身延町にあり、梅平地区は甲州に残った南部氏の一族が八戸に移るまでの200年住したところという。 国道52号線がやや山手にむきを変えて富士川からはなれ、波木井川にそうと『身延山』の名が多くなる。 旧国道にはいり、その身延山久遠寺への道とわかれるように進むとすぐに鏡円坊があり、「南部氏館跡」と「身延山開基大檀越 南部實長公旧蹟」と思いがけなく大きな案内板と石標識が目にとびこんできた。 鏡円坊は現国道52号線ぞいにあった。 つまり昔からの参道を横断して現国道が通ったということのようだ。クルマをまわして門をはいったところにある駐車場にいれて見学し、すこし離れたところにある南部氏館跡を探したがわからず、ただ久遠寺が目のまえにある近さと山上までのロープウェーがあることに驚かされてしまった。 クルマを北へ走らせて、ふたたび富士川が沿いはじめたところに身延町立図書館があったので立寄ってみたら、南部氏館跡のくわしい見取り図をみつけたので、もういちど鏡円坊にもどり墓地の裏手の山裾にはいって館跡をみることができた。 <鏡円坊の案内板ほか> <波木井南部氏館跡案内図> <館跡から身延山をのぞむ> 甲府駅周辺を散策し、隣接する舞鶴城跡で白梅紅梅の花をみたあと、韮崎まで足をのばし翌日の信州行きにそなえた。 <甲府舞鶴城> |
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アラ・ハバキさんの長征……なかなかフォローできませんでしたが、南部氏のルーツに迫る今回あたりから私にも少し見えてきた感じです。野辺地は留守にしていらっしゃるんでしょうか? |
大納言 2017/04/07 23:41 |
大納言さん、お久しぶりです! |
アラ・ハバキ 2017/04/26 12:15 |
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