アラ・ハバキの「道の奥」廻り

アクセスカウンタ

zoom RSS アツカシ山周辺への旅

<<   作成日時 : 2017/04/13 12:21   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

国道四号線を南下して岩手県を縦断し、一関市から松山道とよばれる山あいの道をいく。

松山道は近世の奥州街道より古くから利用されていたと考えられる道で、一関から岩ケ崎(宮城県栗原市栗駒)・真坂(同市一迫)をへて大崎市岩出山へでる。

『吾妻鏡』文治5年(1189)8月21日条には、「爰2品経松山道、到津久毛橋給」とあり、近世以降は上街道とよばれ、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の旅路のとされている。


旧栗駒町役場のあった岩ケ崎は山あいから出てきたせいか街にみえるが、中心部にはよらず道をそのまま南下するとまもなく上ったところに「鳥矢ヶ崎古墳群」の大きな看板が立っていた。

同古墳群は測量調査にあたった東北学院大学の報告書には

−鳥矢ケ崎古墳群には北の要素と中央の要素が混在していること、被葬者には当時の律令国家の役人であった人物が埋葬されていることが判明し、当地が伊治城で反乱をおこした伊治公砦麻呂の一族が基盤とした地域と見られることもあわせて、東北古代史を考える上で大変重要な知見をもたらすこととなった。−

と記されている。史跡公園にある案内板にも同趣旨の説明があった。

奥州12年合戦の源頼義と文治5年奥州合戦の頼朝が在陣したという伝承のある屯(営)岡(タムロガオカ)八幡神社を栗原中がわの参道からはいったらまるで山城へ上がっていくような道の行きかえりで、そのあと青雲神社から青雲寺へまわった。

近くにある九戸神社へいき―『栗駒小のある旧岩ケ崎城跡は九戸政実の乱の際には関白豊臣秀次の陣所となり、降伏した政実は竹籠にいれられてこの地まで護送されて切られたという。』―築館ICから自動車道で村田ICまで南下して、柴田町から角田市域にはいった。


<鳥矢ヶ崎古墳群と屯岡八幡神社周辺マップ>
画像


<鳥矢ヶ崎古墳群>
画像


<屯岡八幡神社>
画像


<九戸神社>
画像



国道四号線から県道114をいくと白石川をわたり、正面にある仙台大を左折して陸自船岡駐屯地まえをすぎるとまもなく阿武隈急行線の高架橋をこえる。

すぐ妙立寺の看板があり左にはいる。
高架橋のあたりから前方につらなる小高い山の3〜4か所ぐらいだったかに墓地がみえた。あまり見慣れない光景にびっくりしたが、サクラなどの花が咲いているこの山全体が妙立寺のようだった。

門のまえにある文化財の案内板に、東北最古の日蓮宗寺院であることと、開基した日義法尼は「甲州の波木井実長に嫁ぎ・・」とめざす文言がしっかりと書いてあった。


夕方、白石城下をそぞろ歩いてサクラにはまだちょっと早い公園から武家屋敷の通り、締めは「白石温麺」を食べて帰ろうと雰囲気のある外観の店ののれんをくぐったら残念ながら貸切だった。


<妙立寺遠景>
画像


<夕景の白石城>
画像


<武家屋敷の通り>
画像

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
アツカシ山周辺への旅 アラ・ハバキの「道の奥」廻り/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる