アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 文治五年(1189年)の風景

<<   作成日時 : 2017/06/05 10:18   >>

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文治五年(1189年)九月、志和郡陣ヶ岡に吾妻鏡によれば−軍士廿八万四千騎〔但し諸人の郎從等を加う〕−の鎌倉軍が源氏の白旗をかかげ、さらに岩手郡厨川の故地に軍をすすめて長い戦いが終わろうとしていた。

吾妻鏡は、厨川での様子のあとに

この間、(奥羽)両国での騒動によって庶民はひどい目にあい、あるいは子や孫をなくし、あるいは夫婦別れ別れになり、生き残った人達も山林に隠れて生業を投げ出さざるを得なかった。そこで、これらの人々を呼び集めて、元の所で安心して暮らせるように告知した。それにくわえ古老たちにはそれぞれに綿衣一着とりっぱな馬を一頭与えた。

と記している。

『吾妻鏡』は同時代の記録ではなく、鎌倉幕府内に残る記録や公家の日記類まで参照して、鎌倉末期に編纂されたもので、なかには多くの誤りや曲筆が含まれているという。
 そうだとしても、上記の一般庶民の苦しみの描写については、そうであったろうと思われる。かりに本意が、宿老たちに「賜綿衣一領。龍蹄一疋」だったとしても、貴重な一行とおもわれる。




この年の七月に三方面にわかれて奥羽攻略に出発した鎌倉軍の本軍は29日に白河関を越え、北陸道軍(日本海側)は鼠ヶ関を、東海道軍(太平洋側)は勿来関とそれぞれに奥羽三古関をへて「奥入り」をはたしている。


このうち北陸道軍の進路についてみると、吾妻鏡の文治五年(1189)七月小十七日の記述には

北陸道の大将軍比企籐四郎能員・宇佐美平次實政は、下道を経て、上野の国高山・小林・大胡・佐貫等の住人を相催し、越後の国より出羽の国念種関に出て、合戦を遂ぐべし。

と指示があったとある。

「下道を経て」とあるが「上野の国高山」を初めとして現在の群馬県内を通っていることから、これは現在の「上の道」と呼称されるルートと思われる。
上野の国高山以下の地名は現群馬県藤岡市高山、おなじく藤岡市小林、前橋市大胡町、邑楽郡明和町大佐貫である。信濃国府(現長野県上田市)越後国府(新潟県上越市)をへて念種関(現山形県鶴岡市鼠ヶ関)から出羽国にはいったようだ。


<鎌倉三方面軍の進路図>
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北陸道軍を率いる大将軍比企籐四郎能員(ひき・とうしろう・よしかず)は現埼玉県比企郡の豪族で、『鎌倉殿』頼朝の乳母比企の尼の養嫡子で、能員の妻もまた鎌倉二代将軍となる頼家の乳母となっている。頼朝の妻政子を擁する北条氏とならぶ御家人の地位にあった。

比企能員は上野国・信濃国守護(信濃国目代を兼任)であったが、さらに能員の異母兄にあたる朝宗は守護とおなじような権限をもつ北陸道勧農使をつとめている。

新潟県柏崎市の鵜川神社には、「この時、能員の率いる軍勢が越後路に差しかかるや大暴風雨に襲われ、やむなく近くの社に雨宿りして天候の回復を祈ると、霊験あらたかにして晴れ渡り、云々」と伝えられるという。


もうひとりの将である宇佐美実政(うさみ・さねまさ)はべつに大見平次実政ともいい、伊豆の豪族伊東氏につながっているようだ。大見氏と宇佐美氏は系図が錯綜していて確かなことはわからない。

伊豆挙兵後の治承4(1180)年10月鎌倉に入った頼朝が初めて勲功の賞を行ったさいに、実政は大見家秀とともに名を列ねて本領を安堵され、越後国白川荘の地頭職に補任されるなど新恩にも浴して関東御家人のなかでも有数の地位についた。
また、実政は頼朝の寝所を護衛する「御寝所伺候衆」の一人となり、数多くの御家人のなかでも厚い信任を得ていた一人であったようだ。
この北陸道軍内では軍(いくさ)目付の役割をしていたのではないかと思われる。

かれはこののち津軽総地頭職となり、数か月の「大河の乱」に対峙することになる。


<鎌倉から信濃国境まで>
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<越後国府から鼠ヶ関まで、江戸期の道中記から>
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