アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 平泉藤原氏の郎従・由利八郎の伝承

<<   作成日時 : 2017/06/25 09:01   >>

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総勢28万余とされる鎌倉軍が集結した陣ヶ岡での問答で名をあげた平泉藤原氏の郎従・由利八郎。
その陣ヶ岡のある紫波町の“広報しわ”「ふるさと物語」のなかに「錦戸太郎の墓」と題した伝説が載ってある。

ここでの「錦戸太郎」は通常いわれる秀衡の長子国衡ではなく、六男頼衡とある。

−錦戸太郎頼衡は四代泰衡との間に不和が生じ北方に逃走したが、紫波町と雫石町の境にある東根山の山麓で追っ手に討たれた。若年の頼衡を憐れんだ里人たちが遺骸を葬って懇ろに供養し自然石を立てて墓としたのが、今に伝えられる「錦戸太郎の墓」であるという。−

四代泰衡はさらに墓石をとりはらうように命じてきたため、里人はやむなく近くの藪に棄ててしまった。

ここで由利八郎が登場する。

−この地に通りかかった由利八郎が、墓石を捨てたあたりまでくると、草むらの中か妖しげな光り物がポーと浮かんできた。八郎は「これは狐狸のしわざ」と激しくこれを斬りつけたところ、カチンという音がして光る物がゆらゆらと飛び出し、墓までくると消えてなくなった。翌朝、この話を聞いて里人たちが墓のところに来てみると、取り除いたはずの墓石がもとの場所に立っていて、よく見ると頂部が斜に切断されていた。里人たちは「八郎の怪力にたよって墓石をもどしてもらったのだろう」と噂したという。−(*「広報しわ」に掲載された文章を簡略にしています)


その由利八郎が切りつけたという伝承がある「錦戸太郎」の墓石をみてみようと、盛岡から志和稲荷への道をたどってみた。場所は−紫波町小屋敷地内にある稲荷街道の道端−としか記されていない。


標高928mの東根(あずまね)山などの山々が南北にはしる裾を志和稲荷へ行く道には、ラ・フランス館、東根温泉、志和稲荷温泉などの温泉をはじめ、食事処や直売所なども点在していた。東方の北上川にむかってゆるやかな斜面にひろがる畑地や水田の見晴らしがいい。

もしかして伝説を書きしるした案内板はともかく、標柱ぐらいは立っていないかと小屋敷地内とおもわれる地域をクルマでめぐったが、それらしいものに当たらない。
ちょっと引っかかったのは畑地の一画にあった神社。

クルマを寄せて近づいてみると、自然石に大きな傷があるようにみえる。ただ、「八将神」と「明治十・・」と彫られた文字がみえる。

これだろうか?

<薬師堂と八将神>
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<傷?のある八将神>
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<薬師堂・八将神から陣ヶ岡マップ>
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「広報しわ」の文には文字については触れられていないから確信がもてなかった。
すぐ近いところにある畑で草刈りをしていた50代ぐらいの男性に声をかけて聞いてみたが、その伝説については知らない。ただ、厳密にいえば、ここは小屋敷ではなく上松本になるのだという。

確信がもてないまま、紫波町立図書館へむけてクルマを東へ走らせると十字路に「陣ヶ岡公園」の標柱が立ち、さらに進んだところに「蜂神社」の鳥居がたっていた。ここは以前、陣ヶ岡を訪ねたさいに通った道だった。
ふと、この距離感が「由利八郎」の伝承を生んだのではないだろうかと思ってしまった。


頼衡については津軽外が浜に逃れて津軽浪岡氏の祖になったという伝承がある。


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