アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 伝承の「照井太郎」

<<   作成日時 : 2017/06/28 14:32   >>

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『吾妻鏡』の文治五年八月大七日で平泉方の守備戦線について記述している。それによれば、

−阿津賀志山に城壁を築き要害を固め、加えて刈田郡にも城郭を構えてさらに名取と広瀬の河川には大縄を引いて柵にしている。
本陣は国分原の鞭楯で、栗原、三迫、黒岩口、市野辺りにも数千の勇士をおいている。−

とあり、守将の名も何人かあげている。

同じく八月大十日には「根無藤(ねなしふじ)」という戦場の名と、金十郎、匂當八、赤田次郎の三人の将の名がある。
ごく近い「韮神山」はでてこず、当然「照井太郎」の名もない。

下野目にある丸山(照井)城をとおっていく「栗原、三迫、黒岩口、一野邊」戦線にも名はみえない。

つまり吾妻鏡に「照井太郎」の名はない。

それでも「照井太郎」の名は今に語り継がれている。その差はどこからきているのだろうか?


「照井太郎」の名が地名として残っている奥州市前沢区照井館。そこにある牛の博物館駐車場にかかげられた「白鳥マップ」の案内板に

−「照井館」−牛の博物館の西南の高台に、藤原秀衡の重臣照井太郎をしのんで建てられた石碑がある。一帯はその居館跡であるが、石碑は昭和30年代の開田整備で片隅によせられ崩れた状態にある。照井高春は胆沢平野の古堰の開鑿や一関の照井堰を造ったいわば、平泉藤原氏の土木部長役を担った人である。南西方向には平泉を間近に見渡すことができ、火急の際には即駆けつけられる位置にあった。−

とある。石碑は残念ながら撤去されたようだが、水田の中心部には「南陣場土地改良区 開田碑」が建てられていたし、国道四号線わきの徳沢坂には「照井館集会所」と書いたふるびた看板もかかげられていた。

ひととおりを巡ってきた今、「平泉藤原氏の土木部長役」という語が今に語りつたえられる「照井太郎」の大きなカギとなっていると思える。

たとえば、一関市から平泉にかけての農業用水「照井堰」。
その上流に「照井水神」があり、下流には照井という字名がのこり「照井神社」もある。これらも領主としてではなく、農業用水を開さくした先人として祀っているのだろう。

ここまでの「照井太郎」は「高春」と表記されていた。


<テルイまっぷ>
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<照井館跡の南陣場土地改良区 開田碑>
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<照井堰先人供養碑>
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