アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 文治五年(1189年)の風景−出羽の三人 その@

<<   作成日時 : 2017/06/08 13:36   >>

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北陸道を攻め上る鎌倉軍を防衛するために

−又、田河太郎行文、秋田三郎致文を遣はし、出羽國を警固すと云々。−

(吾妻鏡文治五年8月7日)と、平泉方のようすをつたえている。
この日は、鎌倉大手軍本陣が「陸奥国伊達郡阿津賀志山辺の国見駅」に到着した日で、対する平泉方の陣構えをのべたあとにつづいて記述している。

これによれば、平泉方の出羽口防衛軍は田川と秋田の二人になっている。
「吾妻鏡」には出羽方面の記載がすくなく、平泉方ではあとで由利八郎の名がでるぐらいである。鎌倉方の出羽方面軍の将兵の名もほとんど記載がないが。

そして出羽方面のようすは、鎌倉軍本陣が多賀国府にいたとき

−文治五年(1189)八月大十三日庚子。比企藤四郎。宇佐美平次等。出羽國へ打ち入り、泰衡が郎從の田河太郎行文、秋田三郎致文等を梟首すと云々。−

とあり、さらに、志和郡陣ヶ岡についた

−文治五年(1189)九月小四日辛酉−

日に

−北陸道の追討使の能員、實政等、出羽國の狼唳を靡せ、參じ加はる(北陸道軍の比企・宇佐美両将が出羽国の豪族を従わせてやってきて加わった)−

の二ヵ所にあるだけ。

この出羽国の豪族とは一に由利八郎をさすのだろうが、ここ陣ヶ岡において、由利八郎捕縛の功を争う詳細なやりとりが「吾妻鏡」に記されている。

吾妻鏡の記述からは平泉方の三将がどこでどのように戦ったかよくわからない。
鎌倉軍が京都に送った、文治五年(1189)九月小八日の戦況報告

−又、出羽國に於て、八月十三日合戰す−猶以て敵を討ち候訖。(他にも出羽国では、八月十三日に合戦をしました。勿論敵は討ち取りました。)−

からみると、8月13日に一回だけおこなわれたようにみえる。

しかし、またべつな見方もあり、


<鎌倉軍進路図/日本の中世5>
画像



この図では、田川・秋田勢と由利との2回に分かれて戦っているようだ。


平泉藤原氏の郎従である三将は、出羽国田川郡・由利郡・秋田郡の郡名と名乗りがおなじなので、それぞれの在地領主であろうとされている。

ただ、秋田三郎致文については異をとなえる史家もいる。
それによると、出羽国飽海郡秋田(あいた)郷−現在の山形県酒田市日吉町周辺の旧称−の豪族ではないだろうか、という。
ほかに、秋田三郎と田川太郎は兄弟という伝承もあるらしいが、原本はわからない。
江戸中期に記された「那須記」にも平泉の郎党「秋田致文」がでてくる。

それによると、治承四年(1180)“宇治川の合戦”で敗れ那須にのがれた源三位頼政の一族を、平家の指示によって平泉藤原氏の郎従秋田致文が会津口からせめてきたが撃退されたという。

このことは九条兼実の『玉葉』の養和元年(1181)7月1日に記された「横田川原合戦で木曽義仲に敗れた城長茂が慧日寺の勢力下にある会津の城に逃れようとした。ところが、そこに藤原秀衡は郎従を遣わして城長茂一党を再び越後へと追い払い、会津を押領した」と、いう意味の記録と同一のものかもしれない。


こういう伝承は平泉の郎従秋田三郎致文のなにごとかを伝えるものかどうかの判断ができないくらい、秋田市にも酒田市にも伝承のかけらもみつからなかった。




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