アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 平泉藤原氏の郎従・田川太郎の伝承

<<   作成日時 : 2017/06/24 10:10   >>

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文治五年(1189年)越後路から出羽国に進攻した鎌倉軍に対峙した平泉藤原氏の郎従・田川太郎の伝承が一関市東山町田河津地内にのこっている。

『吾妻鏡』によると、田川太郎は秋田次郎とともに討死しているのだが、その「首塚」が束稲山の東がわにある矢ノ森集落につたわる曽我寺址にあるという。
矢ノ森は平泉藤原氏時代からの金山跡と伝えられる地である。


一関市内の東山町長坂は名勝「猊鼻渓」のある砂鉄川が流れる山間の町で、大規模な石灰石採掘場があることでも知られていて、そこをみおろすような場所に唐梅館公園がある。

唐梅館は鎌倉御家人千葉氏のながれをくむ長坂千葉氏が鎌倉期から戦国期まで本拠地としたが、天正十八年(1590年)、この地で磐井、胆沢、気仙、本吉、登米、栗原などの将が集まり、豊臣秀吉が通達した小田原参陣に従うか否かを決する軍議が開かれた場所として名がのこり、今にその様子を再現した「唐梅館絵巻」という祭りもおこなわれている。

また唐梅館については、奥州藤原氏の郎従・照井太郎高春の館であったともいわれている。


唐梅館公園のわきを通って山手にはいったところが田河津地区で、まもなく「秀衡公ゆかりの金山址、藤壺の滝」の案内板がある。それにしたがって5分ぐらい走った道端に金山址があり、「伝説、矢ノ森八景」の絵入りの案内板が建てられている。


案内板の「曽我寺址」−秀衡公時代庶民の拠り所として栄えた駆け込み寺−という短い文には、田川太郎の名はみあたらない。が、いちのせき市民活動センターのHP内にある「矢ノ森史跡保存会」のなかに

−「曽我寺址」は、藤原泰衡の家臣である田河行文が出羽で頼朝軍と戦い討ち死にした際、家臣の曽我三郎が主君行文の首を持ち帰り、平泉を一望できる桜の名所である束稲山の麓に行文の墓としました。近くに庵を結び主君の冥福を祈って一生を終えた地と伝えられています。―

とあるから、地元ではそのように伝承されているようだ。


<「伝説、矢ノ森八景」案内板>
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<「伝説、矢ノ森八景」のうち「八枚田」>
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曽我氏といえば相模国足柄郡の曽我庄の出とつたわるが、有名な「曽我物語」にあるように伊豆の伊東氏ともかかわりが深い。

もしかしたら・・・
曽我三郎は出羽国へ進攻した鎌倉軍に属していたのではないだろうか?鎌倉方の将は伊豆出身の宇佐美平次実政であることからの連想なのだが。

ふたたび、もしかしたら・・・
曽我三郎は田川太郎と戦ったのではないのだろうか?
−庵を結び冥福を祈る−のは家臣だけとはかぎらない、矢ノ沢の高みから意外と畑地のひろがる風景をみて、そんな感想をもった。


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