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zoom RSS 続・伝承の「照井太郎」

<<   作成日時 : 2017/07/02 07:36   >>

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照井水神にある「先人供養碑」には「太郎高春」とならんで「太郎高泰」の名が刻まれている。

「照井堰」にちなむ伝承では、奥州合戦後に照井一族は出羽国にのがれた。いまでも秋田県横手市周辺には「照井」姓が多くあるようだから、出羽国とは仙北三郡をさすのだろう。
出羽にのがれた照井氏の後裔・太郎高泰(高安とも)は、その後平泉へもどり、高春が先鞭をつけた堰の開鑿(さく)にとりくみ辛苦のうえ成し遂げたという。


文治五年(1189年)の奥州合戦において平泉方の将としての伝承を残したのは「太郎高直」である。「高春」の子であろう、と言われるがよくわからない。

その足跡は登米市佐沼の佐沼(鹿ヶ)城、大崎市の丸山(照井)城、東松島市矢本の照井城(神社)や一説には東山町の唐梅館や一迫の姫松館にも築城者として伝承があり、村田町の韮神山から大河原町内にかけての史跡をふくめ、広い範囲にのこっている。

平泉や一関がある磐井郡から大川原町などの刈田郡までの地域は、平泉藤原氏の影響力がとくに強い場所だったと推定される。しいて言えば、平泉藤原氏の直轄する領地が多い地域だったと思われる。その地域に点在する「照井太郎」の足跡。

いずれも戦国期の改修をへているようなので、太郎高直が築城したと伝わる当時の『城』は想像するしかないが、その立つ場所や河川が多く湖沼の点在するなど、いくつかの可能性を考えると「太郎高直」は河川改修の築堤か、また沼地や湿地帯の排水路の建設作業にたずさわったのではないだろうか?
その事業は室町期・江戸期のさらに大規模になっていった灌漑水利事業の陰にかくれたことによって、照井氏の功績は築城という名におしこまれたのではないだろうか?

ふるくは『照井川』と呼ばれたという栗原市内を流れる迫川と矢本の定(じょう)川の、それぞれの地に鎮座する大崎八幡や手招八幡等々の照井伝承はその名残りとおもわれる。



平泉藤原氏が推進した水田開発に伴って勧請されたものであろうと考えられ、胆沢 ・ 江刺 ・ 磐井 ・ 栗原 ・ 本吉の各郡に多い「ウナネ」「ウンナン」とよばれる神との関連や棲み分けについては、もう一段の学習が必要で今はまだよくわからない。



<大崎市丸山城の風景>
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<登米市佐沼城から>
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