アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 猛暑日だった!7月14日(金)

<<   作成日時 : 2017/07/18 12:24   >>

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朝、北上市内をでて南に向かうR4はクルマが多かったが、金ヶ崎町との境あたりにある工業団地への出勤者のものと思われた。水沢・一関をすぎ、県境をこえて栗原市金成藤渡戸から右折して県道182号線で山あいのを行き、段の原から左折して津久毛への道をたどり、まもなく平野部の岩ケ崎にでた。


「吾妻鏡」の文治五年8月7日の記述によれば、平泉方の防御線は阿津賀志山と刈田郡の城郭そして名取・広瀬の両河には柵があり、さらに「栗原、三迫、黒岩口、一野邊」にも備えがあった。
おなじく8月20日には、栗原地域の多加波々城、津久毛橋の名がある。


城下町だった通りには旧城の鶴丸の名がそめられた幟が列をならべてはためいている。
通りの西の端までいって「清水寺」「黄金寺」「館山寺」、そして「上行寺」まえから館山公園へあがった。その一角にある鶴丸城跡から南にみえる営岡八幡が意外とちかい。また、黒岩館はすぐ北に隣接している小山がそれだった。
公園内は草刈りなど手入れがいきとどき、ひろく紫陽花が咲いていた。


<鶴丸城址から営岡八幡方面>
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来た道をもどり津久毛まえをすぎて、旧松山道の標示にしたがってはいってみたがすぐに途切れているようだった。猿田彦神社では二人の大工が材をかついで石段をあがっていた。どこか補修でもするのだろうか?
左折して古戦場の段の原に出ると、ここに「芭蕉の案内板」がたっていた。普賢堂に立ち寄り、自鏡山わきの道をすすむと未舗装になり撤退してR457沿いの石兜へでて市野ゝへまわり、自鏡山西麓にある吾勝神社による。普賢堂からの道はこのあたりにでるようだった。


<市野々地内、自鏡山>
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R457で一関市街へもどったが、このころになるとひどくこたえる暑さになっていた。


赤荻(あこおぎ)から萩荘(はぎしょう)へ行き、小学校・中学校まえからR457にでて黒沢地区を探索した。
萩荘コミュニティーに史跡案内図が立っていて、「市野館(秋葉館)」の名が気になったので東北道のさきを探したがよくわからなかった。前九年の役(奥州12年合戦)の激戦地「小松柵」の比定地・谷起島を歩き、久保川と磐井川をいったりきたりした。また赤荻へいき観音寺から山根公民館まえにでると、「東(あずま)街道」とあったのですこしはいってみる。
 萩荘から磐井川をわたった赤荻の平泉へつづく道は山に閉ざされているようだ。そのためR4経由で毛越寺ちかくの毛越(けごし)の山手にまわり、髭(かつら)石よりやや手前から広域農道で南沢から戸河内へでて「男滝」「女滝」をみて中尊寺わきにでる。この道は平泉への搦め手で、クルマでなければ衣川に出られる道もあった。


<萩荘史蹟めぐりマップ>
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平日にもかかわらず、中尊寺はあいかわらずの人出でにぎわっていたが、素通りして衣川の北にある史跡をたずねた。

小松館跡からがっさん橋をわたり、民家が出はじめるところに琵琶柵跡があり、すぐに伝・衣川柵跡という並木屋敷跡が畑となっている。七日市場跡は衣川のもっともにぎやかなところだったのだろう。猛暑のなか1kmちょっとで接待館跡にたどりつき、ここからクルマですこしのところにある、通称・金売吉次屋敷跡といわれた長者原廃寺跡をみて広々とした衣川史跡の探索をきりあげた。


<接待館遺跡案内板から>
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<接待館跡から中尊寺方向>
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<並木屋敷跡>
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