アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 古道探しの!7月15日

<<   作成日時 : 2017/07/19 09:45   >>

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中世の和賀郡を中心に勢力をひろげた和賀氏。

戦国末期にその終焉の地となった岩崎城跡は和賀川と夏油川の合流する場所にあって、いまは運動公園などがある。
R107から南へ折れて、本丸跡へつと南側を秋田自動車道がはしっているのが見えた。北は眺望がきかず、以前あったという天守閣を模した公民館のあとは舞楽殿となっていた。


(奥州市)前沢方面への標識にしたがって県道を南下し、金ヶ崎町の東北自動車道わきにある「鳥海柵跡」へいくと、史跡説明板のある場所は青々とした稲がたっている水田となっていて、北側の大きな堀跡が往時をしのばせてくれた。

説明板とならんで三本の梅ノ木が立っていた。


R4を北上し、市街地から二子町内に道をかえて「飛勢(とばせ)城」へいく。
ここは和賀氏の本拠地だったところで、その本丸にあがると北側に一段たかくつくられている展望所から眼下に曲りをもった北上川がみえる。河畔にちかい台地には和賀氏が信奉した白鳥神社もある。
広々とした城跡は今、市立公園として整備管理されている。


<岩崎城址本丸跡>
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<鳥海柵跡の梅ノ木>
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<飛勢城址から>
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ここから北上工業団地をぬけてR4も横切って西へ向かい、左折して南にむいた道が旧藩政時代の岩崎街道だった。この道は和賀川にぶつかるまでまっすぐに伸びている。

堤防にあがってみたものの、雑草で川面はまったくみえず、南にあるはずの岩崎城跡も確認できなかった。


この岩崎街道は奥州街道花巻宿から平和街道岩崎宿に設けられた「物留御番所」までの脇街道だったが、明暦 3年(1657年)、盛岡藩命によって改修される以前の奥州街道ができるまでは本街道と呼ばれていた古道だったという由緒がある。

古代衣川柵から北上する道の名残りなのではないだろうか?


おなじ道をもどり、南から北へたどってみた。

滑田(なめりだ)地内にある新平(にっぺい)遺跡は古代の駅家跡にも比定されている。その小高い丘には運動場や墓地、さらにリンゴ畑もあった。

村崎野の奥寺神社をすぎて花巻東BPにはいる手前から花巻駅にむかう道にのりかえ、市街地にでて花巻城跡についた。
いまは市役所などがある一帯は古代から鳥谷ヶ崎とよばれる稗貫郡の中心地だった。広い城跡には社寺や民家が軒をならべた町となっていて、史跡説明板も多くたっていた。


花巻市街地から二枚橋をすぎて、旧石鳥谷町域の寺林地内で光林寺にでた。時宗の古刹の前に広がる水田のなかを古道が南北にはしっている。

ここからはそう遠くない紫波町片寄地内にある旧鎌倉街道発掘現場をさがして二巡り、R4と鉄路との地理的位置を考えてここだろうか?とおもったのが、立ち入り禁止の札がたつJR東日本の敷地だった。

そうだとしても案内板ぐらいはあるだろうと昼食のためにいったん離れて再度もどってみたがみつけられなかった。


<平和街道図/いわて大事典>
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<和賀川堤防から北への道>
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<新平遺跡説明板>
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<光林寺>
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暑い日差しがさらに増すようにアツくなった道探しを追えて、日爪館跡にある五郎沼から陣ヶ岡をへて志和城跡につづく道筋を北へはしった。







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