アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 衣河の関から北へ、胆沢川まで

<<   作成日時 : 2017/08/12 17:23   >>

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道の駅平泉でお昼休憩をしたあと衣川地内にむかった。

衣川には二つの関址があり、安倍氏の時代にあったとつたえられる「衣河の関」はいま、東北自動車道のすぐ下にある。

衣川にかかる月山橋をわたり「小松館(柵)」のまえをいくとT字路にでる。正面に三峰神社と和我叡登攀-ワガエトノ-神社の白い標柱がたつところを左に自動車道にそう細い道があり、まもなく衣河関跡にでる。葭ヶ沢(よしがさわ)が衣川になだれこんでいてまったくせまっくるしい場所だ。沢をこえる橋がかかっていて、その先は二またに道が分かれていたが、左にいくと中尊寺の裏山にでているようだ。


<衣川史跡マップ>
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<平泉町戸河内(へかない)マップから>
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<衣河関跡>
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安倍氏の旧地といわれる下衣川に八幡神社と安倍館をたずね、旧村役場のあった古戸へもどる。

衣川から北へ行く安倍道と伝承される道を探そうとすると、旧村中心部からやや北に位置する「一首坂」は「衣河関跡」につづくとっかかりとなる場所とおもわれる。

古道を探る場合には史跡や伝承地のほかに字名もとっかかりとしている。

その一首坂は史跡として整備されていて、自然のままにのこる衣河関跡とだいぶ趣がちがっていた。
史跡整備のきっかけは盛岡市出身の新渡戸稲造が著書「武士道」で古今著聞集「衣のたて」のエピソードを広めたことにあるようで、案内板にそう書いてあった。1980年(昭和55年)に五千円札の肖像が稲造にきまっているからそのあとに整備されたのだろうか。


<衣川から和賀川までマップ>
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<一首坂>
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上った道がくだり、メガソーラー施設のわきをいくとまた道はくだり、奥州万年の森となる。白鳥川の中流をこえて大袋へでてふたたび上り道となって胆沢平野の台地が視野にひろがった。

扇の形をした平野の半径は約20km、中心角は約35度で、扇頂部の標高が約250m、扇端部では30〜40m。 扇状地の面積はおよそ15,000haで我が国でも最大級の広さだという。


いまは合併して奥州市だが、それまでの衣川村・前沢町そして胆沢町にでたことになる。
駒籠(こまごめ)万内堤のわきを北へ、寿安上堰をこえた八幡堂には

−永保三年(1083)藤原清衡の社領寄進、寿永元年(1182)秀衡の焼失社殿の再建・・−

という、ここに鎮守する八幡神社の由来がかかれてあった。


道場と峠という字名のあいだにある高橋が胆沢区小山地区の中心部で学校や郵便局などがある町場となっている。そのため道が入りくんでいて迷ったが、なんとか北への道にのった。

大師堂から寿安下堰をこえて化粧坂の薬師堂によると、境内では小型の機械をつかって砂をまいているところだった。足跡がのこらないよう端をあるいた広い境内地には久須志神社もあった。縁起には

−前九年の役に源頼義が戦勝祈願のため勧請(神仏の霊を迎え祀ること)されたと言い伝えられている。−

とあり、薬師堂には佐用姫伝説の由緒が記されてあった。

国分で交差する道が秋田県の東鳴瀬村と古くから結ばれた仙北街道で、すぎてまもなく大道地内で国道397号線をこえて、どこまで行っても水田がひろがる平坦な道を胆沢川にでた。


寿安堰の開祖は伊達政宗の家臣後藤寿庵とされ、江戸時代に開かれ、茂井羅堰は寿安堰よりも古く茂井羅という伝説的な女性により1570年ごろに開削されたといわれている。
それよりさらに4、500年ほどはさかのぼる安倍氏や平泉藤原氏の時代、この地は原野と森林が多く面積をしめる「水陸万頃」(すいりくばんけい)の土地だったようだ。


<八幡堂の八幡神社>
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<化粧坂薬師堂>
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<胆沢平野の散居集落/胆沢土地改良区>
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<胆沢土地改良区マップ>
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