アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 義空上人の伝承から

<<   作成日時 : 2017/11/22 10:22   >>

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京・西陣にある大報恩寺について「平泉雑記」(安永9年(1780)相原友直著)は

−京北野千本ノ地ニアリ、本尊ハ釋迦也、故二俗二千本釋迦堂ト云、(略)或ハ言フ、今ノ本堂ハ藤原秀衡カ建立スル處ナリト、雍州府志巻四補遺ニ出タリ、−

と記し、さらに

−求法上人義空創草之地也、上人生縁ハ羽州也ト云リ、秀衡ノコトヲ載セス、−

とも追記している。

「和漢三才図会」(正徳2年(1712)序、寺島良安編)は−大報恩寺の項に

(名は)義空、出羽の人で、藤原秀衡の孫である。父忠明は日頃薬師仏を信じて、日輪を呑む夢を見て義空が誕生した。(十五才)で相州(さがみ)に赴(つ)き薙髪(ていはつ)、鶴ヶ岡八幡の告げによって天台山(比叡山)に登った。澄憲(とうけん)和尚に謁(まみ)えてその旨を深く得るとともに、(略)−

また、大報恩寺の縁起を記した古文書には藤原忠明の子とあって、藤原忠明の名の脇に注釈として「秀衡息」と記されているそうで出生地は「出羽国雄勝郡千福里」で承安二年(1172)生まれだという。


以上の伝承を年表にすると

承安2年(1172)「雄勝郡千福里」出生、父は秀衡息忠明。
文治3年(1187)15歳。相模国鎌倉で薙髪、一説に月輪房阿闍梨に師事。
文治5年(1189)奥羽合戦、平泉陥落。
建久1年(1190)比叡山へ、澄憲法印に師事。
正治3年(1201)建仁の乱、本吉四郎隆衡、京で討たれる。
承久3年(1221)草堂、嘉禄3年(1227)大報恩寺建立。


仙北郡につながりがある名をもつ「仙北五郎利衡」は、『尊卑分脈』に三兄・忠衡の同母弟でともに討たれたという五男通衡と同一人との推測があるが、義空上人との父子関係は年齢的に合わない。また、雄勝郡に千福の地名はみあたらない。

月輪房阿闍梨はわからないが、澄憲法師(1126〜1203)は平治の乱の信西の子で、澄憲の子の聖覚(1167年-1235年)は法然の高弟として知られる。

のちに円空大師の称号を贈られる法然(1133〜1212)は源空という名をもつが、法然のまわりには『空』のつく名がおおくみられる。法然に「往生要集」を教授した黒谷の聖は叡空上人、高弟の西山善恵房は證空、有名な親鸞は綽空である。


求法上人とよばれた義空が法然とかかわりをもっていたかわからないが、法然の弟子のなかに阿波の介という京・伏見のひとがいる。中年以降とおもわれる年代で法然に師事し、現在浄土宗で用いている2連の日課数珠はかれの考案といわれる。また『源空が念仏もあの阿波の介の念仏に全くをなじことなり。』(法然聖人絵)という有名なエピソードにも登場する。

かれは法然の姿絵をもって旅に出、はるばる平泉にきて中尊寺金色堂で端座合掌して亡くなったという。金色堂の入り口には南無阿弥陀仏の名号が刻まれた『念仏行人 阿波之介』の石碑がたてられている。

京にまで知られた金色堂へのあこがれか、平泉藤原氏への追悼か気になっている。

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