アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS もりおか周辺の平安末期

<<   作成日時 : 2017/11/30 16:07   >>

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康平5年(1062年)9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵が落ちてから、そのおなじ厨川柵に平泉追討の鎌倉軍が七日間本陣をおいた文治五年(1189)9月11日までのあいだ、盛岡市近辺の歴史はしずかな時間がとおりすぎた印象がある。

盛岡市内遺跡群発掘調査報告書(2014年度)では、遺跡がつたえるこの時代を

−12世紀の村落や屋敷、居館の遺構は落合遺跡(下米内落合1丁目142-2・6)や堰根遺跡(浅岸向田)、稲荷町遺跡(大館町14-2・26-9・323-1の一部/稲荷町9-3)などで確認されている。また、奥州藤原氏の影響下にあったと考えられる宗教遺跡も多数存在する。12世紀以降、街道筋や山頂などに経塚が築かれるようになり、内村遺跡(下飯岡石橋)では経塚に埋納したとみられる常滑窯産の大甕が出土しているほか、湯壺経塚(湯沢3地割上屋敷2-12)からは常滑の三筋紋壺、一本松経塚(下米内一本松)からは渥美窯産の壺が発見されている。大宮遺跡(本宮字小林41-5・45-3・45-16)では大溝から12〜13世紀のかわらけが出土している。−

と記している。


<平安末期の盛岡周辺の遺跡>
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盛岡市山岸は市中心部から東へR4バイパスをこえて、中央公民館のある愛宕町(旧下小路)のさきにある。
江戸期は三陸海岸の野田方面へいく「塩の道」がとおり、城下東の関門を守る同心町の御弓町もがつづいていた。

その山岸に阿弥陀仏坐像を本尊とする「西光寺」があって山岸阿弥陀堂とよばれた。
同寺には平泉三代秀衡の建立とも阿弥陀像の寄進ともいい伝えがあるが近年廃寺となり、おなじ天台宗の市内鉈屋町の千手院に統合された。
そのあとにわずかに墓地がのこされていて、隣接する山岸小学校にかけて本堂や末寺が数寺あったという。

山岸小の東を北上すると「下馬門」跡の十字路をすぎてまもなく右にはいる小路があり、クルマのすれ違いがむずかしそうな狭さでJR山田線の踏切へでる。

往時は3万坪の広さがあったという盛岡山永福寺の敷地はわずかに、踏切手前の「永福寺覚善院」の古い案内板と踏切をこえたところにある本堂の「歓喜院」と三社権現がのこっているだけのようだ。

<山岸周辺の遺跡>
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平泉期の遺跡は山岸に隣接する浅岸や下米内の中津川と米内川が合流するあたりで数か所発掘されている。

合流点に架かる水道橋から右岸をさかのぼると幼稚園のさきに浅岸薬師神社がある。ほとんど山あいにちかい奥まった場所という印象だった。
境内社の「在庁神社」は羽黒山在庁職にあった真田式部清鏡を祀ったもので、南部氏の御師を担って糠部地方を霞としていたから糠部在庁とか南部在庁と呼ばれた。

中津川の対岸にわたり浅岸地区をひとまわりしたが区画整理がひろくいきわたり往時の面影はまるでない。わずかに浅岸柿ノ木平公園に遺跡説明板をみつけただけだった。

また、浅岸せせらぎ公園内にある浅岸公民館まえに区画整理事業前の地区測量図が展示されていて、ようやく「前野」「柿の木平」「上村屋敷」「向田」の小字名が確認できたのは助かった。

<浅岸地区測量図から>
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区画整理された新興住宅地の奥まったところに東国寺への参道がS字形にうえにのびていた。
途中に縁切不動堂があり、さらにいくと参道からはみでるかっこうの山道とおぼしいものがみえたのでいくと、ここから山岸町かいわいが一望できた。

青い空には白い帽子をかぶった岩手山もみえる。


<下米内落合あたり>
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<浅岸柿の木平公園>
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<東国寺参道から@>
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<東国寺参道から>
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