アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS もりおか周辺の平安末期A

<<   作成日時 : 2017/12/01 11:01   >>

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岩手県の埋蔵文化財調査報告書「向中野館跡・小幅遺跡・台太郎遺跡」のなかに

−雫石川右岸と左岸では対称的な様相を呈している。左岸の台地上には大館遺跡群をはじめとした縄文時代の遺跡が数多く知られている一方で、右岸の沖積段丘面上には志波城跡や今回当センターで調査した3遺跡をはじめ大宮北遺跡、鬼柳A遺跡。本宮熊堂B遺跡など奈良〜平安期の遺跡が数多く分布している。−

とある右岸地区はここ20年のうちに農家が散在する田園地帯から新都市として区画整理され、以前の面影は浮かべようもないほど様変わりしていた。


<雫石川南岸の遺跡図>
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台太郎遺跡は

−遺構数が多いため,出土遺物も多種多様であるが,関東系土師器,湖西窯(静岡県)産の須恵器平瓶など,各地との交流を示すものがみられる。
時代は地点によって異なるが、概ね古墳時代末期〜平安時代の大集落遺跡であることが明らかとなったが、古墳時代末期と奈良時代の竪穴住居跡は混然一体となる形で東側と西側に密集する傾向が見られ、平安時代の竪穴住居跡は北部に多く分布するが、地点によっては各時代の遺構が重複しあう状況を示す地点も多い。−

と記され、この地方では最大規模の集落であり、長い時代つづいたらしい。

向中野小学校の西に諏訪神社がある。
碁盤の目の道路に区分けされた新興住宅地と商業施設などにはさまれて落ち着かないようにみえたのは、となりで建築の基礎工事中であったからか、はたまた境内というよりは敷地内といったほうがいい光景のなかで古木の枝伐り作業中のせいだったか。

向中野小の校舎ごしに岩手山がややちいさくみえる。その山にちかづくように北上川西岸にある宿田南遺跡をたずねた。


<向中野小から小さな岩手山>
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<向中野諏訪神社>
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宿田南遺跡では06年度第9次調査で、県内初となる多字一石を11点含む多数の礫石経(れきせききょう)が発掘されている。全国例から13世紀から14世紀ごろの遺物らしい。

またその後の第11次調査では、

−この遺跡で初めて掘立柱建物跡と掘立柱列跡、竪穴建物跡が確認された。竪穴建物跡2棟は古代末期から中世城館跡や屋敷跡、集落跡によく見られるもので、厨川地域では稲荷町遺跡や里館遺跡、安倍館遺跡(栗谷川城跡)など、東北地方の中世城館跡で数多く確認されている。建物用途としては工房や納屋、貯蔵庫などが考えられている。−

とある。


<宿田南遺跡と厨川柵跡付近図>
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<城下古地図/遺跡報告書から>
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宿田という地番はいまはないようで、わずかに宿田児童公園や宿田の夫婦けやき(市指定文化財)などにのこっていて、おおむね厨川小周辺いったいをさしている。

北上川にそう県道220号線から厨川小にむかってはいると、道はとたんにせまくなって小路がいくつもつながっている。おおよその場所の見当をつけたあたりにクルマをおいて周囲をぐるりとまわった。

高架の新幹線にむかって小山がくだり、水路も流れている。行き止まりになっていたので引きかえして逆まわりしてようやく住吉神社をみつけた。ちいさな石段と小ぶりの社、その屋根はこけら葺のようだ。

社のうしろは新幹線むかってくだっている。そのさきに安倍氏の哀史をつたえる機織沼があったようだが、さっきの水路がそのなごりだったかもしれない。

一説には文治五年鎌倉軍が本陣を7日間おいた厨川館に擬定される稲荷町遺跡は天昌寺をはさんで反対側になる。


<宿田・住吉神社>
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<神社うしろの水路>
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<稲荷町遺跡図>
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