アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 阿武隈川に沿って白河へ

<<   作成日時 : 2017/12/25 15:50   >>

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峠をこえて会津へむかったR118号線を須賀川から南へ石川町までむかうと、須賀川牡丹園まえをすぎてまもなく乙字の滝のある乙字大橋で阿武隈(あぶくま)川をわたった。


この福島県中通りを南から北へ縦断する阿武隈川の河口にある亘理町では逢隈(おおくま)とあって、同じ川の名から地名となっている。このように古来「あぶくま」とも「おおくま」とも呼ばれていて、由来も源流の白川郡の西甲子岳の山中に住んでいた大熊(青熊・生態)に由来する説や川が蛇行する意味の「隈(クマ・曲)」説がある。

そしてその流域には多くの遺跡や史跡が存在し、河岸には古代官衙跡がならんでいる。


〈阿武隈川流域の史跡図/国交省河川局〉
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<石川町から白河市史跡図>
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須賀川市から玉川村にはいると福島空港があって、自動車専用道路「あぶくま高原道路」が東西にはしっている。
交差したR118号線から旧道にはいるところに川辺八幡神社があった。

玉川村以南は古代の白河郡域に属し、その後このあたりは11世紀前半ごろに分離して石川郡となり、さらに石川庄となっている。前九年・後三年戦後にこの地に土着したとみられる石川氏が500年余にわたって勢力をはったが、その初めの本拠は川辺の雲霧城(保源城)だったと伝えられ、川辺八幡神社が氏神として祀られた由来がある。

川辺集落の南に位置する八幡神社の石段をあがると本殿があって、こじんまりとした境内には「さかさ杉」「大杉」がそびえ立っていた。
旧道を集落の中ほどへすすみ、左折してやや急な上り坂をいくとと旧川辺小跡がある。ここが雲霧城跡の館跡だったようで、雑木が視界をせまくしていたが真下に家並みがみえる。

この城館は一説によると初代石川有光の四男川尻氏が築いたともいわれる。
文治五年(1189)の奥州合戦のさい、石川氏は鎌倉方だったが一族の河尻秀康は平泉方についたといわれる。また柳之御所跡から出土した折敷文書「人々給絹日記」に記載された「石川三郎殿」「石川太郎殿」をこの石川氏に比定し、平泉藤原氏との深いつながりがあったとする説もある。

石川氏はのちに川辺から石川町中野の藤田城をへて石川町の中心部にある三芦(みよし)城に拠点をうつしている。

R118号線BPから県道に左折して石川町中心街へむかう。左手にある三芦城跡または石都々古和気神社の入り口をさがしているうちに中心街にはいってしまった。クリスタルロードという名のけっこうな商店街だった。
城跡のある山を中心に時計回りに一周して上り口をみつけていくと、クルマでだいぶ上まで行くことができた。馬ノ背のような道のわきに城跡の標示板がたっている。

本丸下にある駐車場からすこしあがると「石川城跡」石碑と神社本殿があり、まわりの視界は色づいた葉にさえぎられてみわたせるほど広くはなかった。阿武隈川の支流・今出川北岸の標高290m〜344mの丘陵上に位置し、三方は急な崖で西北は堀切で区切られた山城だという。

<川辺八幡神社〉
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<三芦(石川)城跡碑>
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<石川まち散歩マップから>
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R118号線から県道11号線へ右折し、新屋敷地内にでて滑津(なめつ)橋で阿武隈川をわたり中島村をかすめて泉崎村背関和久地内にはいった。

古代白河郡衙跡の関和久遺跡と関連遺跡の上町遺跡は阿武隈川左岸にひろがる水田と丘陵にまたがるような広い敷地だったようで視界にはまとめられず、ただぼうようとした光景をながめているだけでおわってしまった。
対岸にある借宿廃寺跡のある借宿集落から隣接する舟田中道遺跡の水田やいくつかのちいさな集落のまわりを、その地理的範囲をたしかめるように阿武隈川にかかる橋をわたって周回することで遺跡探索をおえてしまった。


<関和久官衙遺跡図>
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<関和久官衙遺跡周辺マップ>
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<関和久官衙遺跡説明板>
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<白河舟田中道遺跡説明板>
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文治五年(1189)七月十九日出発した鎌倉軍は、十日後の二十九日白河関をこえた。

「秋風ニ 草木ノ露ヲ 拂セテ 君カ越レハ 關守モ無シ」
と梶原景季(景時の長子)は詠んだと吾妻鏡にある。

吾妻鏡ではほかに、津久毛橋(宮城県栗原市)にて梶原景高(景時の次子)が
「陸奥(みちのく)の勢は御方(みかた)に津久毛橋(つくもばし)渡して懸けん泰衡が頸(くび)」
と詠んだとあり、またべつに沙石抄巻5によれば、名取川渡河の際、頼朝が
「いざさらばけふのいくさに名取川」
と上の句を詠み、「梶原(景時か)」に命じて下の句
「君もろともにかち渡りせむ」
を継がせたエピソードをのせている。


一度、白河市街地にはいり古い町やら新しい通りを目にしたあとR294を南下して二所の関をたずねた。関跡が近づくと数人の年配の人たちがそれとわかるいでたちで歩いてきた。栃木県がわからきたのだろうか、さすがに街道歩きは人気があるようだ。さらに関跡には一人の先客がいたのだから。

ここから旗宿にある白河の関までは思ったよりも遠かった。

関跡周辺には駐車場などの設備もそろい、さらに隣接して「関の森公園」もあって季節にはにぎわうだろうとおもわれる。

関跡を神社の本殿を中心にひと回りしてみると、空堀跡などもあり中世の館跡の雰囲気がある森だった。
境内に建てられた「白河関跡の発掘調査」には遺跡図と出土した墨書土器が描かれていて、そのほかに出土した掘立柱建物跡、鍛冶跡、柵列、門跡の可能性が考えられる柱穴があり、これらや遺跡の立地条件を総合的に考察した結果、古代関跡の条件にかなうことがあきらかになった、と記されていた。

さらに栃木県境まで2,3km走ってみると、平坦ながら道がややせまくなり、その場所は切通しになっていて、こちらには追分の明神が鎮座していた。

<白河二所関址>
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<白河関跡>
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<上空から見た関跡>
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