アラ・ハバキの「道の奥」廻り

アクセスカウンタ

zoom RSS 勿来の関から

<<   作成日時 : 2017/12/27 18:48   >>

ナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

まだ早い時間だと思ったが、勿来の関公園の駐車場にはクルマが3台もいた。
義家像に迎えられて詩歌の古道をあがっていくと、この高さなら広々とした太平洋がながめられるだろうと期待していたが木々のあいだからわずかに覗くだけだった。
まもなく頂上についたが意外とひろく奥に文学歴史館がある。

「吹く風を 勿来の関と思へども 道も狭(せ)に散る 山桜花」

後三年合戦の後に(前に、とか諸説あり)義家が詠んだというこの歌が載っている「千載集」の成立は文治3年(1187)ともその翌年ともいわれている。文治五年奥州合戦直前ということになる。

公園内にはいくつもの駐車場がもうけられていて、クルマが数台づつだが停めてあり散策する数組のすがたがみえるから人出の多い公園のようだ。

<勿来の関から花園神社マップ>
画像


<勿来の関公園案内図>
画像


<関址碑と両宮>
画像


<義家歌碑>
画像



R6号線にでて茨城県境をこえ、五浦海岸をまわったあと関本地内から県道27号線を山手にむかった。

交差する常磐道をすぎたあたりから道はせまくなり、いよいよ山にはいっていく。しばらくは人家がみえず、関本町才丸ですこし見えたのでホッとしたがふたたび山と沢がつづいた。
華川町域の某地で久しぶりの集落を見、花園川にそっていくとやがて花園モール(集落の多目的施設)をへて花園キャンプ場まえにでた。

治承4年( 1180)、常陸国金砂城(茨城県常陸太田市金砂郷地区)において鎌倉軍と戦った常陸佐竹氏が落城後こもった花園城は現在の花園神社のあたりだという。

吾妻鏡には『秀義主(ひでよし・ぬし)を捜し求むの處(ところ)、深山に入り、奥州花園城へ赴くの由、風聞すと云々。』と記述されている。

地図をみると角がでるようにした奥州と常陸の境にある山岳地帯で県道27号線は福島県塙町への行先を表示していた。

左折してまもなく花園神社の手前に山あいにしては広い駐車場があり、先客がいた。その先客とは擬宝珠のついた赤い欄干の橋をわたった先にある山王大権現の額がかかる赤い楼門ですれちがった。

その先にあった社殿は華やかで圧倒されるほど想像以上に大きかった!


<花園神社>
画像


<花園山周辺マップ>
画像



県道27号線をもどってこんどは県道153号線154号線と華川町域を縦断し、ふたたび関本町域にでた。

常陸から海岸沿いに陸奥へはいる関所は古代に菊多関とよばれていたが、平安後期には勿来関という名にかわっている。どこにあったか諸説あり、菊多関と勿来関がおなじ位置かどうかについても議論がある。

福島県教委の歴史の道「浜街道」には

−ここでは菊多関存設時代の記録と、古墳〜平安時代の遺跡分布状態や地形から「関本上根岸―上野台―大作―中山廃寺跡―出蔵―関根―北境―国魂神社−菊多郡衙」への道を想定した。

とあって、菊多関は

−関根から北境の間に設置されていたものと想定される−

と記している。

この古道は走らなかったが、県道27号線から関本中学校を右折してゴルフ場の東側にそう旧道らしき道をいくと、勿来町窪田の中心街をとおって勿来第一小前へでられた。

第一小の北に郡遺跡があって、その南側は国魂神社がつづいていた。


<菊多(勿来)関古道推定図/浜街道付図から>
画像


<郡遺跡付近>
画像


<国魂神社>
画像

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
勿来の関から アラ・ハバキの「道の奥」廻り/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる