アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 置賜周辺と平泉伝承

<<   作成日時 : 2017/12/06 16:48   >>

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<置賜周辺史跡関連地図>
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<出羽国荘園図/山形県地域史研究15>
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まほろばの里高畠は10月初旬にふさわしい青空でむかえてくれた。

市街地の東にある道の駅のむかいは古の里歴史公園で安久津古墳群の遺跡を背景に「うきたむ風土記の丘考古資料館」がたっている。
公園の東には三重塔がたつ八幡宮があり、南へ直線の道をいって川をわたり畑中の道わきに「金原古墳」の案内があり、さらにいくと小郡山となる。

考古資料館報9号には

−7世紀後半には置賜地域も、日本の国家体制にくみ入れられ、はじめ「優嗜曇(うきたむ)郡」と呼ばれ、陸奥国に属していた。712年の「出羽国」の建国にともない陸奥から出羽国の一部になる。
 郡の役所である郡家(ぐうけ)は、当初高畠町小郡山に置かれたらしいが、さらに郡山(南陽)→大浦(米沢)→道伝(川西)と移転し、10世紀頃まで機能していたと思われる。−

とある。

古代の郡衙跡は中世城館の小郡山館跡となったそうだが、そこを東西に広い道がはしり、中央公園もある。この時代の郡衙施設はすこしの高台にあるかと思っていたがそうでもなく平坦な地であった。小郡山から高畑城跡のある高畠小までは歩いてもいいほど近い。

山形県中世城館遺跡報告書の高畑(たかはたけ)城には「築城者 樋爪五郎季衡」とし、

− 高畠は平安の昔より・.摂関藤原氏、奥州藤原氏の荘園、支配地で、左大臣藤原頼長と奥州2代基衡との間に税をめぐるやりとりが頼長の日記にあるところから、高畠を中心とする屋代郷一帯は奥州藤原氏の一族(基衡の甥季衡という伝)か支配下の有力土豪が支配していたと思われる。−

と記してある。

古い地図を手に、城跡を一巡りしてから中央公園からくるR399と県道7号線をつないで西へいく。


<道の駅たかはた>
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<高畑城跡>
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<小郡山地内>
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最上川をわたってすぐに、父を捜す旅の途中で米沢を訪れた平安時代の歌人・小野小町が、やつれた姿を川面に映したところ、顔が鬼のように見えた(やまがた橋物語/山形新聞)という鬼面(おもの)川をわたる。
二つの川はすぐ北で合流している。

左折してまもなく尾長島の公民館を目印にして集落をクルマでながしたが、とくに館跡の標示はないようだった。
龍峯山広沢寺の北に中世の城館「尾長島館」があり、その南西にせっして古い館の錦戸館があったという。その築城者は錦戸太郎と伝承されている。

ここの南はすぐに米沢市域だが、市街地にはいるまえに東へむかい米沢BPから八幡原公園をめざした。
手前にあるアルカディアという名の広い工業団地の南にあった食事処で遅めの昼食。


八幡原公園の東をながれる天王川、その対岸に木和田集落がある。
ここは米沢市域だが下流にむかって高畠町となり、県道1号線をいくと上和田・下和田・元和田をへて亀岡文殊堂をすぎて高畠町の中心部にでられる。

水田がひろがる風景を木和田の集落を奥まで行くと、盛興院という寺の前で道はあぜ道にかわっていた。水田のむこうが木和田館跡らしい。

古い案内板に

−(略)11世紀後半から12世紀代に求められ、東北地方では最も古い城館跡の存在と言える。−

と、上郷地区史跡保存会の名称で発掘調査の遺物をあげて説明している。


<尾長島広沢寺>
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<木和田館跡>
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米沢駅前のスーパーですこしの買い物をしたあと、信夫庄司佐藤氏の伝承のある佐氏泉公園へむかってあるくと、やや道に勾配があった。遺跡発掘調査もしている。
花沢町にあった八木橋館を本拠とし、ここに別邸があったという。米沢駅構内がみえるほどちかく、「義経ゆかり 佐藤継信忠信兄弟生誕の地(伝)」とおおきな看板がたっている。
たしかに庭園の風情があった。

<米沢市街発掘中>
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<佐氏泉公園>
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米沢駅から奥羽本線にのれば一駅の関根駅のちかくに普門院という寺がある。
上杉鷹山が師の細井平洲を出迎えた敬師の美談の場所なのだが、阿津賀志山で平泉軍を指揮した西木戸太郎国衡ゆかりの薬師像はいまここに安置されている。庫裏の保存工事中のようだが、朱色で茅葺きの門のよこに「敬師の像」があった。

国衡ゆかりの薬師像をつたえられた錦戸薬師堂は普門院の背中の山をこえた赤崩にある。
最上川の最上流部へはさすがに道も曲りが多くなってくる。途中にあった海老ヶ沢不動尊の由来に

−ここ海老ヶ沢地区は、元は赤崩村、山上村に属し、昔から南原、白布、会津への街道筋として栄えてきた。(略)又、赤崩地区石木戸にある錦堂薬師堂への参道にもあたり、(略)−

とあってほっとした。

薬師堂は道にせっして参道の石段があり、説明板には

−秀衡の六男頼衡が輿に奉安し(略)吾妻山鳥越を経て当地に鎮座し−

と、その伝承を伝えている。

左に丘陵が長々とつづく笹野彫の町から、その丘陵の南端にあたる館山にでて、館山城へのとっかかりをさがしてクルマをめぐらせた。この城跡は樋爪季衡の子、新田冠者経衡が居城としたと伝えられている。
館山4丁目と5丁目の小路をなんどかさぐってみたが、クルマで上がれるような道とはおもえず残念ながらあきらめることにして、R287を北にむかった。

米坂線羽前小松駅前も通りこして一駅さきの犬川駅へ急いだ。日暮れがちかくなっていたからだ。

犬川駅のちかくに道伝遺跡がある。この遺跡は初めのころは「置賜の柵」「犬川の柵」と呼ばれてきたが、方形の掘立柱や墨書土器・木簡等の出土から官衙的性格をもつ遺跡とされている。

 圃場整備か土地改良がおこなわれたようで遺跡地図と道路があわず、ちいさな集落をそんなに巡るわけにもいかず、遺跡案内のかわりに「白川右岸下小松工区」の碑を撮って一日をおえた。


<錦堂薬師堂>
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<下小松にて>
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