アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 経清を弔う中尊寺「白符忌」

<<   作成日時 : 2017/12/17 15:18   >>

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平泉の中尊寺では、毎年9月17日に亘理権太夫藤原経清の菩提を弔うための「白符忌」という法要が行われているという。

これは「陸奥話記」に、康平五年(1062)9月17日に厨川戦後に国府軍にとらわれた経清にたいして陸奥守兼鎮守府将軍の源頼義が発した言葉として記されている

「汝、先祖相傳に予の家僕たり。しかして年来、朝威を忽諸(こっしょ=おろそかにする)して、旧主を蔑如(べつじょ=ないがしろ)するは、大逆無道なり。今日、白符を用いること得るや否や」

に応えるように「白符」が経清のなにものかを象徴する言葉としてもちいられているのだろう。


前九年の役は永承六年(1051)11月、陸奥守藤原登任 ( なりとう・たかとう)と秋田城介平重(繁)成が率いる国府軍にたいし奥六郡の主安倍頼良軍とのあいだの鬼切部の戦いで始まり、安倍軍が勝利した。

5年ほど不気味な静けさをへたあと、天喜四年(1056)阿久利(あくり、あくと)川の戦いで後任の陸奥守兼鎮守府将軍源頼義と安倍一族のあいだに起こり、磐井郡黄海(きのみ)の戦いでは安倍軍がふたたび勝利をおさめるという結果となった。

この一連の戦いの途中から経清は故あって国府軍から安倍軍に転じたあと、奥六郡から武装兵を率いて境界となっていた衣川関の南に進出し、朝廷に税を納めるのではなく、奥六郡に税を納める様、諸郡に命じた。

「陸奥話記」には

命じて曰く「白符を用ふべし、赤符を用ふべからず」と、白符は経清が私の徴符なり、印を捺さず、故に白符と云ふ。(略)将軍之を制すること能はず

とのべている。

つまり、朝廷の支配地域は年貢を納めるときに赤符という領収書を発行するのだが、経清は“朝廷に代わって年貢を徴収する”として、“白符”という領収書を私的に発行したことになる。そして、敗戦によって弱体化した陸奥守がわはこれを制することができなかったのだ。

この行為によって奥六郡の南の地域でも、国府でなく安倍氏の支配が行われたことになる。また、「白符は経清が私の徴符なり」とあることは、これが経清のおもわくと主導でおこなわれたとみられる。


「蒼き蝦夷の血」(今東光著)では

-経清は陸奥を律令国家の外において一王国をたてなければ本当の意味で生きられないのだと主張したー

と経清の構想を推し量っている。


経清の最後を

−経清は首を伏して言うこと能わず。将軍はこれを深く悪(にく)み、故に鈍刀を以て、その首を漸(ようやく)に斬る。これ経清の痛苦久しきを欲すればなり。−

と「陸奥話記」は結んでいる。

このとき、経清の遺児清衡は7歳だった。



<奥六郡図>
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<衣川古戦場>
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