アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 豊田館から平泉へ

<<   作成日時 : 2017/12/19 09:47   >>

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清衡が居館を「豊田館」から磐井郡内に移したことについては、「吾妻鏡」(文治5年9月23日条)が

−去る康保年中、江刺郡豊田館を岩井郡平泉に移し宿館となす−

と記しているが、この康保年中は嘉保または康和の誤りであろういう。康保(こうほう)年号は964年から968年であり、

永承(えいしょう)6年(1051)〜康平(こうへい)5年(1062)前九年合戦
永保(えいほう) 3年(1083)〜寛治(かんじ) 元年(1087)後三年合戦

上記の二つの合戦のあとにくる、嘉保(かほう)年号(1095年から1096年)と康和(こうわ)年号(1099年から1103年)の誤記と思われ、さらに当時の事情をかんがえると康和年間の説が有力らしい。


その平泉の地名について、1993年の『図説奥州藤原氏と平泉』において高橋富雄氏は

−清衡以前、当地に平泉地名はなく、平泉館と呼ばれる時期も清衡晩年であり、その由来も李徳裕の平泉荘に倣ったものとする。またその読みもヘイセンと音読みだったとする。−

という説を披露し、2014年の「平泉文化研究年報 第14号」では、伊藤博幸氏が「平泉」思想と藤原清衡」と題し

−わが国平泉地名のルーツは中国盛唐の李徳裕(787-849)の別業、平泉山荘に行き着く。これは、すべての研究者に共通する認識である。今回は詳しく触れることができなかったが、それを媒介したのが平安初期に将来された白居易(772-846)の『白氏文集』であることも後者の研究成果から明らかとなったといえよう。また、そのはじめは、ヘイセンという音読みであり、訓読みヒライズミは後出的であることも推定できる。さらに平泉と命名されるまでは、当地方は衣川の一地域であったことも認めてよいであろう。−

とまとめている。


<初期の中尊寺、柳之御所図/中世平泉の市街地形成2009年>
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高橋富雄氏は平泉へ移るまえの居館「豊田館」についても、「武家政権としての平泉政権 将門に対し・源平に対し」と題した講演のなかで−清衡の磐井移住に「平将門」政治思想が映って見える−として

−江刺郡の「豊田の館」というところにおったんですね。さて、その「豊田の館」というのが、もともとここにあった名前かどうかは保証できません。(略)これは平将門が、自分が住み、支配の基地としたところが「下総国の豊田郡」というところ。そのため「将門」のおった館のことを「豊田の館」とも呼んだのです。私は清衡が、江刺郡の自分の土地を、この将門の居館にならって「豊田の館」とした。−

と考えていると、述べている。


奥州市江刺区岩谷堂下苗代沢字餅田にある「豊田館跡」擬定地からは、平安末期の遺物「白磁四耳壺」「塼物」が出土している。また、その周辺数kmの範囲には、出土遺物から江刺郡衙跡かとも推定される「落合U遺跡」があり、中世末期の大日如来が安置される大日堂(皇大神社)、伝益沢院跡などの遺跡があって平泉藤原氏との関連からも注目されている。
このように古代から中世にかけての中心部であったことはまちがいなさそうだ。

また、安倍氏の本拠地ではないかともいわれる胆沢郡金ヶ崎町の「鳥海柵跡」や奥州市水沢区の鎮守府胆沢城跡は西に北上川をへだててはいるが、数km程度の距離にあって視界をさえぎるものもない先にみえる、という居館をかまえるには絶好の場所でもあった。



<豊田館想像図>
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<豊田館/えさし藤原の里>
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<周辺史跡図/アテルイの郷をめぐる>
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高橋富雄氏の講演は、「磐井」「柳之御所」へとつづいている。


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