アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 須賀川市からー古代岩瀬郡

<<   作成日時 : 2017/12/21 15:30   >>

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岩手日報紙に、2006年1月から2008年6月まで57回にわたって連載された「平泉への道」の第46回「押領使」の結びは

−基衡の時代にあたる保延4(1138)年に、陸奥国大介(上席の介)で鎮守将軍と押領使を兼ねていた藤原朝臣某が、岩瀬郡司に対し岩瀬一郡(福島県須賀川市周辺)を左大臣・源有仁の家領とするために、四至(しいし)に牓示(ぼうじ−境界の標示)を打つことを命じた文書がある。−

とある。
このことは、康治二年(1143)までの陸奥守藤原師綱が、その年に信夫郡の検注(検地)拒否事件で基衡と対立したことが伝えられていることにつながるということだろうか?


<須賀川駅周辺の遺跡>
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 郡衙など古代岩瀬郡の主要な遺跡はJR須賀川駅の周辺にある。

 11月初めの須賀川市内は青空にうすい雲がはしるおだやかな日和だった。
 通勤のクルマがいきかうR4号線から駅の南に位置する栄町にはいると、とたんに通行量がすくなくなる中、古代岩瀬郡衙跡の栄町遺跡をめぐった。

 おおよその場所はわかりやすいのだが、遺跡説明板が目につかない。鎌足神社や新栄町集会所など、それらしい場所を訪ねてもみつからず、ようやく信号交差点のすぐちかくにそれを見つけたときはほっとした。

 栄町遺跡「陸奥国石背郡衙跡」の説明板には、発掘当時の写真や郡庁院想像復元図があり、また周辺遺跡「上人壇廃寺跡」「うまや遺跡」「米山寺経塚群」「稲古舘古墳」の説明板もならんでいた。

 「うまや遺跡」から「上人壇廃寺跡」のある第二中へは東北本線を跨線する新しい道路ですぐなのだが、けっこうな高さに上がっていく。

 だが、第二中学校敷地からは遺跡へはいる道はみつけられなかった。
 それでは、と駅北の岩瀬森へまわったが、住宅地のなかを狭く細い道が第二中校舎方向へつづいていた。アパートのさきにある民家のわきからの私有地かとおもわれる行き止まりの道のむこうに草地が広がっていた。
 
 そこが「上人壇廃寺跡」だった。

 校舎の下の一段高い石垣の上にある石碑と説明板をめざしていく。やや湿りけを含んだ草地のためにはきかえた長靴がおもい。
 遺跡はなだらかな傾斜となっていて、上がると校舎敷地に肩をならべる高さになる。そこから須賀川駅のある南方向には釈迦堂川をこえた中心街のビルがみえる。

 遺跡の中央南側にみえる方形に小高い場所は中門、金堂、講堂跡と見られる南北に連なる建物遺構のうちの金堂がろうが、それらを囲む二重の溝というのはわからないままひと回りした。


<栄町遺跡航空写真>
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<うまや遺跡航空写真>
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<上人壇廃寺跡航空写真>
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<上人壇廃寺跡>
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