アラ・ハバキの「道の奥」廻り

アクセスカウンタ

zoom RSS 清衡、平泉を宿館と為す

<<   作成日時 : 2018/01/12 11:13   >>

ナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

後三年合戦(1083〜87)が終わった寛治元年(1087)からの10数年間、藤原清衡とその周辺の出来事を追うと

永保三年(1083)源義家、陸奥守就任

寛治二年(1088)正月、源義家の陸奥守を罷免
寛治五年(1091)清衡、関白師実に貢馬二頭、解文2通、申文1通
寛治六年(1092)陸奥守基家、清衡合戦を報告
寛治七年(1093)6月、平師妙、師季、出羽守源信明の館を焼く
寛治七年(1093)10月、義家弟義綱が陸奥守就任(〜嘉保二年1095正月、美濃守転任)
嘉保二年(1095)村上源氏源有宗、陸奥守就任
         清衡、陸奥国内に私領としての「保」をたてる
承徳二年(1098)醍醐源氏源国俊、陸奥守就任も赴任せず翌年死去
康和元年(1099)北家藤原実宗、陸奥守就任し3ヶ月後に鎮守府将軍を兼ねる
康和年中(1099〜1103)平泉を宿館とする
康和五年(1103)北家藤原基頼、陸奥守就任し翌年鎮守府将軍を兼ねる(二期8年在任か)

長治二年(1105)最初院多宝寺造営、のち一山を中尊寺とする
長治二年(1105)源俊明、陸奥出羽按察使就任(〜天仁元年1108)在任中、清衡からの砂金献納を拒否
        
という年表になる。

河内源氏の源頼義、義家父子二代にわたる陸奥国への宿願は、義家の陸奥守罷免によって挫折し、実弟義綱は格上の美濃守へ転身し京流軍事貴族の道をえらんだ。

その後の陸奥守は村上源氏、醍醐源氏そして藤原北家の貴族が就任し、とくに実宗の代には交易御馬、縑(けん、かたおり)の貢納を復活するなど、清衡に代表される在地豪族との融和をはかり、二度の戦乱によって荒廃した奥羽国内が落ち着いていったようにみえる。

また清衡は摂関家との関係を深め、その奥羽の荘園を管理する位置についたのであろう。そして「吾妻鏡」に
−康和年中(1099〜1103)平泉を宿館と為す−

とあるように、江刺郡の豊田館から磐井郡の「平泉」に本拠地を移している。

このことは、

「衣川はせいぜい幅100メートルほどの川である。しかし、都市平泉がこの幅100メートルの衣川をこえた地点に建設されたことは、東北の歴史にとってはきわめて大きな意義をもった。奥州藤原氏はこの100メートルの川をこえることによって、かつての蝦夷(エミシ)の文化風土を背景にしながらも中央の政権や王朝文化とわたりあうことができたからである。」(松岡正剛の千夜千冊、入間田宣夫編「平泉・衣川と京・福原」)

とされる。

「吾妻鏡」にも、「その山の上に塔を建てた。寺院の中央には多宝寺があって、釈迦如来と多宝如来を安置。塔と多宝寺の中間に道を通して関所を置き、旅人の往来の道とした。」と記され、その塔は

「正確な位置は判っていないが、関山丘陵の高所にあったとみるべきであろう。仮に現在の釈尊院(しゃくそんいん)付近にあったとして、この塔は北側からはよく見えるが、南に位置する毛越寺からはまったく見えない。(略)清衡が建立した当初の中尊寺には、北の蝦夷(えぞ)の世界に対しては威を放ち、南の(京都の朝廷を中心とする)世界に対しては恭順の意を示すという政治的な意図があったと推定している。(略)鎮護国家大伽藍の供養願文に清衡が自らを「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現したことと相通ずる部分があるように感じる。(平泉における寺院/八重樫忠郎)

と「平泉」は評される。


前九年合戦の安倍氏や後三年合戦後の清原氏が越えられなかった「衣川」を清衡は越えた。その越えられた理由は何なのだろう?

高橋富雄氏の「磐井と柳之御所」と題した講演では

−略、(平)将門が京都の宮廷に代わる新しい「将門朝廷」を関東に拓こうとしたところこそ「将門」自身の本拠としていた「磐井のとりで」だったと、(略)はじめの「豊田の館」、終わりの「磐井の土地」も、それからそこに造られたという「将門の宮殿朝廷」と称するところのものも、磐井の南にある御所、「磐井南廷」とよばれている。−

京にある朝廷とは別の国家を陸奥国北部に創ろうという意志があって「磐井の地」にこだわりをみせた、ということなのだろう。

また清衡の宿館はのちに、伽羅の御所にたいし「柳の御所」と呼ばれるようになるが、清衡は「柳」を将軍の陣営をさす「柳営」からとり「柳の館」とか「柳の屯」とか称したのではないかとも高橋氏は述べている。


谷川健一氏はその著「白鳥伝説」で、

「平泉」という地名は、越前(現福井県)の平泉寺に因んだものであると指摘している。
この岩手県の「平泉」の命名者は藤原清衡であり、その時はまだ「平泉」という地名はなかった。ではなんと呼んでいたか?
清衡の父の藤原経清は亘理権大夫経清とあり、陸奥国亘理郡の豪族であり、亘理郡(わたりぐん)は、宮城県とされるが、司東真雄氏はそれを否定して、大同三年(808)の『大同類聚方』に「磐井郡(岩手県)亘理」とある事から亘理とはこの「平泉」を指すとしている。そうであれば、清衡がそこに移住したのは、父の出身地を選んだと言う事になるという。
また、清衡は、中尊寺を建てる前に五串の奥の本寺(一関市)に藤原氏の氏寺を建てた。それが「骨寺」という説がある。そこに平泉野という地名があり、骨寺が中尊寺の前身であれば平泉野という地名もそこから移った

という説を紹介展開している。


司東真雄氏の著「東北の古代探訪」P36 −知ることの多い「大同類聚方」には
    盤井郡日理捌人の日理(わたり)薬
という文がある。
ちなみに「捌」は、数字の「八」の代わりに用いる大字で「壱弐参肆伍陸漆(質)捌玖拾」とならぶ。

これだけでは「平泉」の旧称が亘理だったとは判別できないが、ほかの本がみつからないので調べてみたい。

宮城県の亘理郡の語源は「川の渡し場やその周辺」をさす、とJR亘理駅の駅名由来板にある。
平泉町内には太田川沿いに「平泉字樋渡(ひわたし)」という地があり、南から平泉の中心部にはいる位置にある。さらに奥州市前沢区にも「樋渡(ひわたし)」があって、ここは白鳥川沿いの狭い区域となっている。この二ヵ所もまた「川の渡し場」からの地名のように思える。

また、「都市平泉の構造と理念−浄土世界○苑池都市」西(前川)佳代氏の論文には

「清衡の平泉領有ー衣河関再論ー」では、藤原清衡が前九年・後三年の役後に平泉を領有できた理由を分析している。そこでは衣河関の位置を中尊寺のある関山付近に復元し、 それが清衡が領有した陸奥国の奥六郡の南端にあたる胆沢郡に属したことから、清衡は平泉を領有できたと主張し、その後1120年代にその関をなくし中尊寺を造る頃に、地名が衣河から平泉に変わるとともに、同地は胆沢郡から磐井郡に編入されたと推測している。

平泉は旧衣川地内であって胆沢郡だった!という新しい見方がでている。


934年頃に成立した『倭名類聚抄』以前に設置された郡郷。
江刺郡(4郷)(奥六郡の一つ。)大井郷 信濃郷 甲斐郷 槁井郷
膽澤郡(7郷)(奥六郡の一つ。)白河郷 下野郷 常口郷 上総郷(上恙郷? )餘戸郷 白馬郷 驛家郷
磐井郡(7郷)丈部郷(丈几郷) 山田郷 沙澤郷 仲村護 磐井郷 盤本郷 驛家郷


<胆沢城管轄図>
画像




テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
清衡、平泉を宿館と為す アラ・ハバキの「道の奥」廻り/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる