アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 「平泉」以前の平泉

<<   作成日時 : 2018/01/19 14:58   >>

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「平泉」以前の平泉を探す手がかりとして、『陸奥話記』に記された衣河の関攻防のようすをみると

− 三人の押領使が攻め込んだ。武貞は関道を攻め、頼貞は上津衣川道を攻め、武則は関下道を攻めた −

と、磐井川周辺から衣川への道が記されている。
三人の押領使はいずれも清原氏で、本隊は武則である。

この三方の攻略路について、梶原正昭校注版「陸奥話記」では欄外に注釈がのり、さらに補注をおいて詳しく説明している。

関道
高梨宿から平泉の関山を越えて衣川の関に達する本道
*補注92)「武家時代之研究」第二巻に記された大森金五郎氏の説
磐井川の川岸の赤荻から丘陵を越え笹谷を経て平泉に向う道路で、平泉への最短距離。

関下道
衣川の関の南方の下流を通る道
*補注92)「武家時代之研究」第二巻に記された大森金五郎氏の説
蘭梅山の東麓を通る道で、その経路は小松柵から磐井川を渡り清水・元宿・山目泥田・中里・川屋敷・祇園を経て平泉に達するコースに当り、大体現在の陸羽街道と一致するという。

上津(じょうしん)衣川の道
本道より北の川上で衣川を渡る道か
*補注92)「古代日本の交通路」第二巻山田安彦氏の推定
磐井駅家の擬定地である萩荘上黒沢の「萩の馬場」から市野々川を渡り、「谷起島」の小松柵跡を経て磐井河を渡河したか、小松柵から磐井川を約3km遡河して「越河(こすご)」から磐井川を渡ったかの何れかで、「赤荻」の字「福泉」に石坂柵跡が擬定されているから、前者の経路を経て石坂柵を経由し五串の「古館」から北部の丘陵を越えて太田川上流の「達谷(たっこく)」に入り、そこから太田川流域を下って平泉に達する道路と、字「下達谷」の「峯岸」からさらに北部にある丘陵をぬけて「戸河内(へかない)」に入り、そこから平泉北部の衣川関に達する道との二つのコースがあったという。なお「地名辞書」では、この「上津衣川の道」が古代の駅路であったとしている。


<「陸奥話記」掲載の周辺図>
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ほかにも1990年9月に開催された「前九年の役シンポジウム」報告書に、「前九年の役における戦の経過と道」(小野寺勇基)と題した講演があり、そのなかでも三本の道筋が推定されている。
その道筋の地名をつなぐと、

@関の道:宿(観音寺)〜笹谷〜小金沢〜毛越

A関の下道:山目泥田(国立岩手病院)〜蘭梅山の東〜中里〜川屋敷〜祇園(R4)

B上津(かみつ)衣川の道:越河〜上野〜、福泉〜厳美古屋敷?〜上達谷〜鬘石〜戸河内の掘切〜二反田?
 〜滝の沢
 
となっている。
また古道として、
自鏡山の東〜芦の口〜赤猪子〜達古袋の栃倉〜焼切〜宇津野〜小猪岡〜山谷?〜天王〜鷹の巣
(宝塔谷地〜噌味〜鷹の巣)

も記している。

<衣河関への道図>
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『陸奥話記』に、安倍軍が石坂柵を棄て衣河の関にはいるまでの3kmから4kmぐらいの間に「斃れ亡ぶる人馬は、あたかも乱麻の如し」とあり、また「肝胆地にまみれ、膏膩(こうじ)野を潤す」とあって、おびただしい数の人馬が倒れているさまが描写されている。

一関市赤荻地区から平泉町の太田川沿いに出るまでのあいだに横たわる丘陵は、三方の道筋にあたる場所だが現在でも南北を結ぶ道は歩くほかない。
毛越から小金沢の川にそって赤荻地区外山(そでやま)から笹谷集落にはいってみたが、小さな盆地におもいのほか人家があった。


<蘭梅山麓>
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<泥田廃寺跡>
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<かつら石>
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<笹谷地区>
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<外山地区>
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