アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 磐井郡「黄海の合戦」へ

<<   作成日時 : 2018/02/09 10:03   >>

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天喜4年(1056)2月に起きた、国府軍による阿久利川から衣川への進攻の際、緒戦において陸奥守兼鎮守府将軍源頼義は自軍幹部の伊具十郎平永衡が安倍頼時の女婿であることに、その去就を疑い殺害した。これを知った亘理恒清は平永衡とおなじく女婿である立場のため、身の危険をおもい国府軍から離脱し安倍軍に身を投じることにし、流言をはなって国府軍を二分させたため合戦は膠着状態におちいった。

翌天喜5年(1057)9月、国府軍側の気仙郡司金為時は奥六郡の北方にある釶屋(かなや)・仁土呂志(にとろし)・宇曽利(うそり)【現青森県東部から岩手県北部にかけての地域と推定】の指導者安倍富時にたいして、奥六郡に攻め入るよう交渉に成功し南下した。

これを察知した安倍頼時は2000人に足りない兵を率いて北方に向ったが、途中の“険阻”な地で安倍富時の率いる軍と戦闘になり、頼時は重傷をおって鳥海(とのみ)柵【岩手県金ヶ崎町】まで引き上げたところで死去した。


源頼義は朝廷に対し、これらの経緯を記したあと兵士の増員と食料の支給を依頼する報告書を送ったが、期待するような論功の音沙汰は無かった。
また、功労者安倍富時の名は、これ以後あらわれることはなく、おなじく前九年合戦後の康平6年(1063年)2月の除目に金為時の名も見られず、二人のその後の様子も伝わっていない。

論功はなく兵の増員もならなかったが、安倍一族総帥頼時の死去を好機として、源頼義は1800余人の国府軍を率い、同年11月に金為行が守る河崎柵攻略におもむき「黄海(きのみ)の合戦」が勃発した。


『陸奥話記』には―貞任等を討たんと欲すーと安倍軍4000余人との全面対決のように記されているが、それにしては1800余人は少なすぎるように思える。安倍富時への“説得”におもむいた安倍頼時が率いる“2000人に過ぎない兵”とほぼ同じである。
また、緒戦が河崎柵周辺になった進軍経路も、前年の阿久利川から衣川関をめざした当時の幹線道路とは違っているのは戦略上のことなのだろうか?


安倍頼時の“説得”行動と源頼義の河崎柵への進軍は合わせ鏡のようにみえる。
そして二人の行為はいずれも失敗に終わり、安倍頼時後の奥六郡と完敗した陸奥国府の対峙は5年の間決定的な場面をむかえなかった。

出羽仙北郡の清原氏が栗原郡営岡で陸奥国府軍と合流したのは康平五年(1062)8月9日と『陸奥話記』は記す。


この源頼義の行動について、高橋富雄氏は

−安倍軍との全面的な戦闘を目的としたのではなく、河崎柵の金為行を攻略するのが頼義の意図ではなかったか、−

としている。

緒戦の安倍富時と五年後の清原氏への“甘言”とおなじ方法論という意味をもち、それはまた伝統的な「夷をもって夷を制す」ということなのだろう。


<河崎の柵跡>
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<高橋富雄文学博士顕彰碑>
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<河崎の柵跡と北上川>
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