アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS ふたりの国司―登任と頼義

<<   作成日時 : 2018/02/16 10:01   >>

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前九年合戦(1051〜1062)にはふたりの陸奥国司が奥六郡の主・安倍一族のまえに立ちはだかる。

藤原 登任(なりとう、たかとう)永延元年(987年) - 没年不詳)は永承5年(1050年―63、4歳)陸奥守として下向し、翌永承6年(1051年)鬼切部(鬼功部―現大崎市鬼首とされる)で安倍軍に大敗を喫し更迭された。

藤原登任は長元5年(1032)ごろ、配流となった橘俊孝の後任として出雲守となり、四年の任期後には延任(えんにん)されている。これは長元9年(1036)に完成・遷宮した杵築大社神殿の造営に功績があったからで、国司の登任が造営費用を負担した結果とみられる。

岩手県紫波町赤沢にある白山神社の社伝には、坂上田村麻呂または藤原経清が勧請し、康平年間(1058〜1064)に藤原登任が再興・・・とある。
年代にすこしズレがあるが、ここに登任の名があるのが興味深い。

藤原登任が陸奥守に赴任して1年で奥六郡の主・安倍頼義と戦場で対峙した理由の一端は、うま味の多い陸奥守延任をねらって社寺の造営等をてがけたためだろうか?


<鬼切部城跡案内板>
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<大崎市鬼首地内>
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<紫波町赤沢白山神社>
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鬼切部(鬼功部)は政府がわの出羽軍と陸奥軍が合流する場所だったのだろうか?

むしろ桓武平氏繁盛流大掾氏一族である秋田城介・平重成(繁成・繁茂・重衛)が、軍事にはうといと思われる登任を後方において、自ら率いてきた出羽軍勢のみで決着をはかったのではないだろうか。

 登任の陸奥国赴任に従ってきた平永衡が、この戦いで登任を裏切ったという説があるが、むしろ決戦の地に間に合わなかったのではないか。後任として赴任した源頼義の部下になっていることからそう思う。

更迭されたあとの登任は康平2年(1059年)3月29日出家し、その後は伝わっていないようだ。


源頼義(永延二年(988)〜永保二年(1075)享年八十八歳)は永承六年(1051年―62、3歳)藤原登任に代わり陸奥守となる。

源頼義による上奏文は「東夷蜂起シ郡県ヲ領シ以ッテ夷地トナシ、人民ヲ駆使シ蛮虜トナシ六カ郡中、国務ニ従ガワズ、皇威ヲ忘ルルガ如シ」と当時の状況を報告している。

大赦があり、国守との戦闘行為が不問にふされた安倍頼良は後任の源頼義の名前と重複することをおもい、頼時とかえるほどに低姿勢をみせた。

これから五年ものあいだ国府と奥六郡は平穏だったようだ。
これについて「頼清と頼義」(元木泰雄)では

−受領藤原登任と郡司安倍頼良との衝突が勃.発した.ことは、頼清の離任が何らかの影響を与えたことを推測させる。登任に代わって頼清の兄頼義が陸奥に赴任したこと、頼良がたちまち頼義に屈伏したことは、頼清の下に安倍氏が服属していたことを示唆するものである。―

とする。

源頼義の実弟頼清は長元四年(1031)に安芸守に赴任し、その後も永承三年(1048)以前に陸奥守在任し、ついで肥後守にうつっている。

陸奥守は頼清―?−登任―頼義という順になる。


<陸奥国府と奥六郡境の図>
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