アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 瑜加山と播磨国浦上里

<<   作成日時 : 2018/04/27 13:52   >>

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 江戸期金毘羅大権現と“両参り”といわれた瑜加(ゆが)大権現へは、丸亀から船にのり、瀬戸内海対岸にある児島(倉敷市)へ海上六里(およそ24km)の道をわたった。
 当初は下津井の吹上湊がおおかったが、“両参り”が盛んになる江戸中期からは瑜加山に近い下村湊・田の口湊がにぎわうようになった。もっとも近い田の口湊からは“36丁(およそ4km)”の道のりだった。
 瑜加山への参道(瑜加往来)は東西南北に通じていて、大坂方面から海路でくる参詣客は日比湊(玉野市)でおりて参拝にむかうこともあった。

<下津井・下村・田の口湊と瑜加山マップ>
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 丸亀市内から坂出北ICで瀬戸中央道にはいり、瀬戸大橋をわたる。眼下の海は、前日のしまなみ海道とくらべてひろい分だけ緊張感が増し、たのみの与島SAは満車の案内表示だったから寄り道なしで走る。
 ただ、そのひろがる海の色はおなじうすい水色だった。

 下津井港の上をとおすぎた児島ICで下りたものの、田の口あたりまで海沿いをドライブの予定が、想定外の渋滞にはまってしまった。
 児島中心部から左折して山手にむかい、上の町駅付近から“由加(ゆが)山”をめざした。江戸期の西往来の道をたどったようだ。

 “瑜加山”を “由加山”と表記することが多く、蓮台寺と由加神社とに神仏分離して、盛んだったころの表情は乏しい。神社側の駐車場から石段をのぼっていく参道のわきにある茶店もほとんど閉まっていたが、名代の“あんころ餅”の幟はかざしてあった。

<由加山参道>
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<由加神社>
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<由加山蓮台寺>
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 由加山からは北への道をいく。むかしの“北往来”そのものではないが、すこしばかりの山道のあとは快適な道路で尾原から森池のかたわらを通って木見にでて、県道21号線からR2にのった。

 目的のたつの市に着いたのが午後5時ごろだったから、2時間ちょっとの長距離ドライブとなった。
 R2から揖保川の東(左岸)に沿う道を北上し、中臣印達神社(なかとみ いたてじんじゃ、ナカジン-インダツとも)を訪ねた。
 ここ、たつの市揖保町は「播磨国風土記」にみえる浦上里に比定されている。その名は、たつの市の南部用水路浦上井(うらがみゆ)に残っている。

 「日本後紀」に、延暦24年(805)の事として−播磨国に移配された去返公嶋子が浦上の臣という姓を賜ったーと記されている。

 猿ヶ石川周辺に本拠をおいていたと思われる「去返公嶋子」は播磨国のどこに移配されたのか、その手がかりは賜った姓にあるのではないだろうか?
 その「浦上」の地に、宝亀元年(770年)に創建されたという中臣印達神社のある中臣(なかじん)山は、揖保(いぼ)郡の語源とされる粒丘(いいぼおか)の有力な比定地でもある。

 中臣集落の南のはずれに石の鳥居がたち、集落内をとおる長い道が参道になっている。鳥居の前には高さ制限の金属製ゲートと古めかしい木製の表示柱があり、また「渡御屋」という瓦葺きのこじんまりとした建物もある。
 ゆっくりとクルマを走らせて神社下までいき、そこからはやや上り坂になる参道をいった。

<揖保川の変遷/しそうSNS>
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<中臣集落と鳥居>:
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<境内の「粒丘」標柱>
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