『私残記』、高良神社の絵馬

 文化四年4月29日(1807)のエトロフ島事件の近因は、文化元年~2年(1804~05)に長崎で行われたロシア使節レザノフへの通商交渉の拒絶に端を発している。さらに、その遠因を遡ると11年前の寛政5(1793)年7月、蝦夷島松前の福山城下での幕府宣諭使とロシア使節アダム・ラックスマンとの応接から始まった。  寛政4(1792)年…
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『私残記』、エトロフ島図から

 文化四年4月29日(1807年6月5日)、エトロフ島シャナ沖に現れたロシア軍船から上陸した兵による攻撃によって、駐屯していた守備隊の南部藩士大村治五平の運命は一転した。蟄居という罪を得た彼はのちに、自らの行動を子孫に伝えるべく「私残記」を著したのである。  大村家に伝えられた「私残記」が公にされたのは、森荘一郎氏によって岩手日報…
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「田名部上知」と「蝦夷地直轄領化」

 近世こもんじょ館れぽーと館の『田名部上地問題について通説の再検討‐鈴木宏』によれば、寛政4年(1792)11月13日、幕府の勘定奉行久世丹後守より ―北郡之内田名部二十二ケ村の天明四未年より五ヶ年の平均収納高を書上―  て、提出するようにとの指示が盛岡藩首脳部に通知された。  同じく隣接する弘前藩に対しても、『弘前藩庁国日記…
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享和元年、蝦夷地取締御用掛の旅路

 寛政四年九月のラクスマンのネモロ来航と翌五年6月の松前・福山での応接から5年の間に、蝦夷地の存在は幕府からいよいよ重要視され、寛政10(1798)年、蝦夷地の警備ならびに経営についての本格的な調査に乗り出した。  その調査結果をもとに、翌寛政11(1799)年江戸幕府は外国との警戒取締りのため、東蝦夷地および付属諸島を当分の間、仮に…
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石川将監の津軽・下北視察

 松前での日露交渉が終わったあと、ロシア使節ラクスマン一行は6月30日に福山を出発し、エカテリーナ号を係留していた函館で数日の風待ちをした。そして7月16日故国へ船出し、帰国した漂流民の光太夫と磯吉もまた同じ16日に幕府役人が付き添って江戸へむけて出発している。  一方の石川将監らは、同月18日に松前の福山を発し、江差辺の海岸線を巡視…
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菅江真澄の下北

 寛政4年(1792)9月、ロシア使節ラクスマン一行が根室に来航した頃、菅江真澄は松前に逗留していた。天明8年(1788)7月に津軽海峡を渡って以来4度目の秋を迎え、下北へ渡る便船を待つ日々をすごしていた。菅江真澄遊覧記【牧の冬枯れ】は、寛政4年(1792)10月から12月までを記しているが、その10月6日に  ―この頃、もはら人…
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「北行日録」、木村謙次の探索行

水戸徳川家の内命を受けて蝦夷地へ向かった木村謙次と武石民蔵が記した「北行日録」に、幕府宣諭使(せんゆし)一行の動向が記されている。  寛政5年(1793)正月19日に神岡(北茨城市関南町)で合流した二人は、太平洋岸を北上し2月2日に旧知の塩竃神社祠官藤塚式部を訪れ、そこで「東下蝦夷地キイタツフヨリ訴書」などラクスマン一行の情報を得てい…
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1793年(寛政5)、石川将監の旅路

枢密顧問官となっていた勝海舟が、1890年(明治23)に刊行した「追賛一話(ついさんいちわ)」に ―寛政文化年間、有為の侯伯官吏不少。今爰ここに中川忠英の書中、其の挙る処数人を列記す。― として、老中松平定信を筆頭に16名の「名臣」の名を挙げ、その一人に「源忠房」、つまり石川左近将監忠房の名がある。 元号が寛政(1789~18…
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弘前市指定文化財『源氏物語之詞』について

 高照神社の「源氏物語之詞』は、奉納した津軽のぶが最後の藩主津軽承昭に輿入りする際近衛家から持参したものと受け止めていたがそうではないようだ。久慈きみ代「津軽の源氏物語」について、東奥日報の「郷土の一冊」に寄稿した三村三千代氏の文に ―略。外題を書いた(近衛)基煕は、信姫とはずいぶん年代が離れているうえ、高照神社に伝わる他の資料に…
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「図書館員の気まぐれ展示:源氏物語を読む」、むつ市立図書館

 館内カウンターの前に、「図書館員の気まぐれ展示:源氏物語を読む」という展示がされていた。限られた時間が気になって、そのチラシを一枚とって奥にある目的の書誌のある棚にむかい、急いで必要な個所の複写を済ませて次の目的地に移動した。  帰宅してからチラシに書かれた中にある「津軽の源氏物語―久慈きみ代/編」を調べてみると、弘前市にある高…
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「伊紀農松原」から、京逗留の見物と旅中の旅

「伊紀農松原」では、京滞留が正月から4月までの長期におよんでいる。そのため旅籠ではなく「かり座敷」を依頼したのも当初からの予定だったようだ。その間には、1ヶ月の長旅にもでている。このような例はほかに知らない。  京滞留中の主な行き先と訪問者をあげると ●文化六年正月1日 堂上参内見物 ●正月4日 借り座敷に移る *五条通り…
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「伊紀農松原」から、旅程

「伊紀農松原」の十月半余長旅をその行程で区分すると、ほぼ四つの期間に分けられる。 ① 田名部出立から日光への参拝と江戸逗留まで(72日間)   文化5年9月12日~11月5日。      11月6日~11月25日 江戸逗留 ② 江戸出立から伊勢神宮への参拝、京逗留と高野山登山(146日間)  文化5年11月6日~12月…
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「伊紀農松原」から、熊谷良順の事

京都滞在中の「伊紀農松原」には、著者菊池成章の多くの知己と考えられる人名が見られる。なかでも故郷にゆかりのある人もあって、当時の人々の広域な移動に驚かされる。 なかでも、文化6年(1809)正月12日には ―知行所百姓長三郎抜け参り 同道は石持の者、下風呂湯守長四郎 との「お伊勢参り」の三人の記述があり、さらに正月20日に…
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「伊紀農松原」から、文化六年(1809)正月八日の事

「伊紀農松原」の著者菊池成章と、華岡青洲の「春林軒門人禄」に記された菊池寛蔵との関連を探して、身近にある資料に目を通していたら、「伊紀農松原」の「文化六年正月八日」に「寛蔵」の名が記されてあった。  文化五年(1808)の歳暮に入京した菊池成章一行は、元日の公卿衆の参内を見物したあと、長期滞留のため五条に宿を借り、その八日には …
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「伊紀農松原」から

 田名部代官所下役を退いた菊池成章は、文化五年から六年(1808・09) にかけて十ヶ月余りをかけて西国への旅をし、「伊紀農松原」(いきのまつばら)という旅行記をのこした。  菊池家には田名部のほかに、川内の石倉と下小倉平に知行地があった(「伊紀農松原」序)。石倉沢は高野川、下小倉平は川内川にそれぞれ沿った土地である。 江戸…
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馬淵川中流、二戸市の縄文遺跡

『二戸市史第一巻「先史・古代・中世」』(2000年発行)の縄文時代は、狩猟具と考えられる草創期の尖頭器を出土した米沢(まいさわ)地内の荒谷A遺跡から始まっている。この辺は河岸段丘上にあって馬淵川の河床面とは約20mの比高差があるが、1万年前には川の岸辺だったとされる。 早期中葉の竪穴住居5棟が検出された長瀬B遺跡も米沢地内の馬淵川…
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南部町東部(旧福地村)の遺跡から②

 苫米地『館野遺跡』をのせる丘陵は、馬淵川の過去の曲流が削り取ってつくった急崖で囲まれていて、その南端からは馬淵川を弦とするような半径1100m~1500mの半月形の浸食盆地(谷底平野)の広がりを眺望できる。盆地の奥まった所にある温泉施設「バーデパーク」の傍らを上がる道はS字を描き、天魔平地区を東西に走る農道と交差する。左折するとまもな…
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南部町東部(旧福地村域)の遺跡から

八戸市街地から馬淵川に沿って南部町にはいる国道104号は、「しらはぎライン」という別名がある。田子町を経て秋田県大館市まで、国道103号との重複距離を含めて126.3 km。ちょうど中間点となる県境の来満(らいまん)峠は難所として知られ、田子町側に白萩平という平坦な高原が広がっている。  八戸市域の北高岩から県道に左折し、馬淵川を…
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縄文時代の貯蔵穴③

新井田川上流に建設された世増ダム(青葉湖)の左岸展望所に江戸末期の八戸藩士蛇口伴蔵の像が建てられている。3月の上旬、開田のための水利開発事業に挑んだ人物の右手が指すダムの水面には広く氷が張っていた。  半周した高台には右岸展望所があり、真下にコンクリートのダム堤体を見ることができる。2004年に完成した水面下には、世増・畑内、そして岩…
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縄文時代の貯蔵穴②

八戸市埋蔵文化財ニュース「掘りdayはちのへ」第5号に、-縄文時代のムラの跡ーというサブタイトル付きで紹介されている重地遺跡。おなじく「掘りdayはちのへ」第19号には、2001年度の発掘調査で竪穴住居跡35棟・土坑309基、2015年度には竪穴住居跡11棟・土坑35基を検出したと述べられている。  また、1997年の発掘調査報告書(…
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