熊野三山へ、新宮市まで166km

江戸の川柳に「お伊勢さんほど大社はないが、なぜに宮川、橋がない」と詠まれたように、当時宮川には橋がなく渡し舟だった。
 東国からの参宮者が利用した小俣の下の渡し(現宮川橋付近)渡しは、桜の木が多かったことから、「桜の渡し」とも呼ばれ、大和・紀州から初瀬街道を通る者が利用した川端の上の渡し(現渡会大橋付近)は柳の木があったので「柳の渡し」とよばれ、それぞれ多くの参拝客でにぎわったといい、その下流に地元の人が利用した磯の渡しや上條の渡しなどがあったというが、いまは架橋されている。


<宮川流域図>
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<宮川の渡し場>
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<宮川河岸にある境楠>
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これから熊野三山へむかうのだから、往時の柳の渡しがあった渡会大橋をめざしたが、右折の交差点を勘違いして通りぬけてしまった。そのまま、宮川の右岸に沿う道をいってからようやく宮川をわたり、右折左折をくりかえし国道42号線に合流できた。

 熊野古道伊勢路とはちかづいたり離れたりしているが、江戸期の道中記にもでてくる地名がつづくので、すこしはその気分にひたることができる。


 紀伊の国にはいるまえに「滝原宮」にクルマをとめた。ここの由緒は

瀧原宮・瀧原竝宮は内宮の別宮であり、昔から神宮の遙宮(とおのみや)と呼ばれるほど品格があります。かつて、皇女・倭姫命が天照大御神を祀るため、相応しい聖地を探し求めていたところ、大河の瀧原の国に出会い、そこに瀧原宮を建てられたのが始まりとなっています。その後、現在の地に伊勢神宮が鎮座することとなったのですが、瀧原宮は内宮の雛形だといわれている。

 国道かたわらにある駐車場は広い。そこに揃いの黄色いウィンドブレーカーを着た数人がいてなにやら案内しているふうだったが、ちかくに立てられた案内板に「○○知事と○○町長の対話」とあったから納得できた。
 
滝原宮はまさしく内宮とよく似ていた。まっすぐに伸びた参道の杉木立は大木で、いかにも神社らしい光景で、頓登川の流れにおりての御手洗場(みたらしば)までの道も古めかしい様子がいい。

<滝原宮参道>
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<滝原宮の御手洗場>
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 国道端に「荷坂峠」の案内板が立っていた。
 ずいぶん大きな案内板が、熊野古道伊勢路の観光開発に力をいれている証しかも。
 ここからは紀伊の国。
 大きな坂をくだって道の駅「紀伊長島マンボウ」で休憩のあと、紀北町の南端にある海山(みやま)地区にある郷土資料館に足をとどめ、さらに熊野古道伊勢路歩きの拠点となっている道の駅「海山」で展示されている案内マップなどを時間をかけてゆっくりと観てまわった。

<海山郷土資料館にて>
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<道の駅「海山」展示物から>
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 海が近いとはいえ、国道は山間をはしる。さらに伊勢道から分岐した紀勢自動車道が並行して尾鷲までけっこう高い場所にみえる。まるで八戸道みたいな高架だ。

 古道ならば馬越峠ごえだが、国道42号が下る道からも尾鷲の市街地がよくみえた。
 「熊野古道センター」の大きな看板にひっぱられるように市街地を右折左折する。海際の火力発電所をすぎたら狭い道を上り、案内板も小さくなってきたのでちょっと不安になる。が、目の前にあらわれたのは立派な施設だった。
 
 このさきはふたたび山間にはいる。閉鎖した道の駅でひとやすみし、ようやく海辺にでたところで「鬼が城」によると団体の観光客がけっこういる。

 熊野市街地のスーパーによって弁当を買い、獅子岩のみえる海辺で遅めの昼食をとる。風もなくあたたかい。なにしろ「年中ミカンの採れる町」が近かったのだから。
 


<熊野古道センターの古道の石畳>
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<鬼が城>
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<獅子岩のみえる浜辺>
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 熊野川をわたって新宮市。
 ホテルにクルマをおいて、まず神倉神社へむかう。
 やや高地に赤い鳥居とゴトビキ岩が市街地からもよくみえる。そこをめざして住宅街をぬけると小学校の校庭があり、道の正面に赤い欄干の石橋と鳥居があった。石橋をわたると左に参道はまがりすぐに石の階段が上にむかってつづいている。

 『鎌倉積み』とよばれる石段は538段。自然石をつみかさねてあるので不安定にみえ、さらにのぼり始めは、足がすくむほどひどく急だ。-急なところは上り口から中の地蔵までの二百段まで。そこまで登り切れば、後は緩やかになります。-だそうだ。

 毎日上っているという地元のひとが「がんばって」と石段の途中ではいつくばるすがたに声をかけてくれたが、女坂との合流地からひきかえさせていただきました。
 
 ゴトビキとはひきがえるの方言だそうだが、岩のかたちではなく、石段をのぼる人たちの姿でもあるらしい。

 赤い欄干の石橋のたもとに「下馬標石」がたっている。新宮市教育委員会の資料によれば

「下馬」標石は寛文12年銘のあるもので、黒雲母花崗斑岩製、高さ1.59メートル、幅43センチメートル、厚さ17センチ、同じ材質で地上高26センチメートル、幅80センチメートルの台石上に立っている。刻銘によれば、奥州は南部志和郡の人物が、子孫繁栄を祈念して熊野参詣7度を達成したことを記念したものとあり、奥州の熊野信仰を今日に伝えている。

 とあるが、現物をみると表面が摩耗していて読めない。市教委の説明からすると、朝熊山金剛證寺にあった七度参詣碑と同じ人物とおもわれる。

 新宮大社では「奉八度の記念碑」みた。
これは新宮市の有形民俗文化財に指定されていて
久慈八日町(岩手県久慈市)の住人、吉田金右衛門なる人物が、熊野詣8回を遂げた記念として、宝永5年(1708年)に奉納したもので、困難をおして参詣を遂げた奥州人の熊野信仰の記念碑である。

 境内のなかほどにあり、背に「熊野詣」と題した説明板もたてられていた。


<神倉神社・鎌倉積み>
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<下馬石>
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<新宮大社>
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<奉八度参詣碑>
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