亀ヶ岡文化、津軽平野の遺跡

五月女萢(そとめやち)遺跡と岩井・大沼遺跡

五月女萢遺跡は津軽半島西岸の日本海に接し、津軽平野を流れる岩木川の河口にできた潟湖(十三湖)の北岸に位置する。その遣跡名は「アヤメ科の植物が咲く低湿地の遺跡」という意味で、津軽地方ではアヤメのことを「そとめ」あるいは「そどめ」ということから来ている。「そとめ」は田植えをする女性を指す「早乙女」の意で漢字をかえて「五月女」と表記したと思われる。

屏風山南部のベンセ湿原は6月上旬になるとニッコウキスゲの群落で黄色に彩られるが、7月上旬にはアヤメ科のノハナショウブ(野花菖蒲)の群落で黄色から紫へと野の彩りを変える。このノハナショウブは湿地や草地に群生する。

<縄文時代晩期の主な遣跡図/五月女萢報告書2007年から>
map縄文晩期の遺跡文字/2017報告書s-.jpg
<ベンセ湿原のノハナショウブ(野花菖蒲)/青森県観光情報サイト>
ベンセ湿原の野花菖蒲ー県観光情報サイト.jpg

11月の中旬の十三湖を渡る風は冷たい。道の駅十三湖高原「トーサムグリーンパーク」展望台に上がる気にもなれず、一休みしたあと旧市浦村(現五所川原市)中心部の相内(あいうち)に入ると、五月女萢遺跡など史跡や遺跡の案内板が要所要所に立てられている。それに従って左折右折を繰りかえしていく風景は松林と砂地に囲まれた平坦地だった。

まもなく単独の五月女萢遺跡案内板があり、休耕田なのか原野なのか判然としない土地が雑木林に仕切られた先に五月女萢遺跡の説明板が立っていた。それによると、2010~2013年度の発掘調査区は100m先になるようで、ここは2006年度調査地の中ほどに当たることになる。

「遺跡は現在、赤土で覆い保護されています。」と論文にあったから、水田で言えば3反ぐらいはあるかとみえる
2010~2013年度の発掘調査区のほうへ徒歩で進むと、土手のような高みを越えた。これが縦列砂丘なのかと足元に力をいれて踏みしめて上がってみると、擂鉢の底をのぞくような光景が一望にでき、所々に青い色のビニールシートが点景を打っていた。

<五月女萢遺跡案内板>
DSCF2265五月女萢遺跡案内板s-.jpg
<五月女萢遺跡と説明板>
DSCF2269五月女萢遺跡と説明板s-.jpg

 五月女萢の立地環境をみると、縄文時代早期~前期には遺跡の形成に不向きな海岸線が間近に迫っていて、後期~晩期になって海岸線までの距離が現在と位置と同じく近くなり居住に適する環境になったことが判明したがわかっている。
五月女萢遺跡は、亀ヶ岡文化よりはやや早い縄文時代後期後半(約 3,500 年前)から始まり、土坑墓もこの時期から造られ始め捨て場も形成されていることから、この頃には墓域や送り場として機能していたようだ。

 捨て場の遺物からは、樹木を伐採する石斧、シカやイノシシなどの捕獲に使われた弓矢や石槍が出土し、日本海や十三湖では、貝の採取や骨角器を利用した漁労行われていた様子がうかがえる。

 また、植物遺体の分析結果からは、遺跡が営まれた縄文時代後期後葉から晩期後葉にかけて、一貫して食料資源であるトチノキが多く、そのほかオニグルミとクリ、ヒシ属、エノキ属、ブドウ属、ササ属が検出され、この地域における植物利用の実態が解明されている。出土遺物の石皿や磨石を使ってトチノキの実を加工するなどをしていたのだろう。イヌの骨格も出土していることから、狩猟犬として利用されていたものとかんがえられる。

 出土した器種不明の漆器は籃胎(竹籠を母胎―竹を編んで素地とする)漆器ではなく木胎(木材を素地―是川中居遺跡からトチノキをくりぬき土器と同じように文様つけた漆器が出土している)漆器である可能性が高いとされ、トチノキの汎用性が裏づけられている。

 五月女萢遺跡で特徴的な土坑墓と祭祀遺構について、同報告書(2017年)では
―略。土坑墓に土偶を副葬する習慣や風習はなかったものと考えられる。一方で、SX01 から全体の3分の1に及ぶ量の土偶が出土したことは極めて特異な出土状況といえる。さらに、集石遺構 からは土偶以外にも石棒や奇石など祭祀に関係すると思われる遺物が多数出土していることから、①土偶を使用した祭祀を行った場所(土偶祭祀の場所)、或は②土偶を使用した祭祀を行った後に、祭祀道具をあの世に送り帰す、送り儀礼を行った場所の可能性が想定される。一方で、遺物集中区とした捨て場からも多くの土偶が出土する状況からみると、遺物集中区も単なるゴミ捨て場ではなく、送り儀礼を行った祭祀場の可能性が高いと考えられる。―
 と述べている。

<map五月女萢遺跡図/同報告書2017>
map五月女萢遺跡図/同報告書2017.png
<五月女萢遺跡調査地近景/報告書本文2017>
五月女萢遺跡調査地近景/報告書本文2017s-.jpg
<五月女萢遺跡遺構配置図/説明板から>
DSCF2272五月女萢遺跡遺構配置図文字/説明板.jpg
<五月女萢遺跡-人面型浅鉢/市HP>
五月女萢遺跡-人面型浅鉢/市HP.JPG
<五月女萢遺跡-石器・石製品/市HP>
五月女萢遺跡-石器・石製品/市HP.JPG

 竪穴住居跡など縄文時代の集落跡(居住域)は未発見であるものの、周辺には大規模な集落跡が存在するものと考えられるが、それは掘削がはげしく遺跡が残らなかったと考えられる東側の可能性がある。
また、晩期末葉の大洞A′式が全く出土しておらず、大洞A′式の良好な遺物包含層が検出された内陸部にある岩井・大沼遺跡へ集落が移動した可能性を想定されている。この時期以降に自然環境を一変させるような季節風の影響等で内陸部へ集落移動をせざるを得ない状況が生まれたものと想定している(報告書2006)。


 岩井・大沼遺跡のある大沼は公園に整備されて、駐車場に立つ「大沼遺跡」表示板から縄文の橋や東日流(つがる)館橋を渡って一周できる遊歩道が大沼の周りを囲んでいる。かつて大沼一帯は樹木が鯵蒼とした場所で、沼地に近づけない程であったという面影はほとんどない。

<大沼遺跡説明板>
DSCF2223大沼遺跡説明板s-.jpg
<大沼公園「縄文の橋」>
DSCF2227大沼公園「縄文の橋」s-.jpg
<大沼公園「東日流館橋」>
DSCF2253大沼公園「東日流館橋」s-.jpg

同報告書(2001年)では縄文晩期末葉を中心とした遺跡である岩井・大沼遺跡の
―集落がどこに営まれていたかは,地形の変化も激しく容易に判断することができない。大沼南岸の緩斜面に面した土器捨て場の周辺に集落を求めるとすると, さらに南の谷地形を挟んだ現在の市浦中学校の敷地内が最も有力視される。理由として,周辺は標高25mほどで,地形的には最も高い場所に位置しており,広い平地を確保しているからである。さらに不確かな情報ではあるが,かつて市浦中学校の校舎新築時に縄文土器が出土したと言われており・・
としている。また、遺跡に持ち込まれた黒曜石・赤鉄鉱(ベンガラ)が多く出土するという特徴をもつものの
―ここでは,後続する砂沢式(大洞A′式新段階)の範晴に含まれる土器は認められなかった。また,遠賀川系土器の搬入も認められない。―
ことから、コメや稲作につづく要素は少ない遺跡と考えられる。

<岩井・大沼遺跡上空写真/同報告書>
岩井・大沼遺跡上空写真/同報告書s-.jpg
<岩井・大沼遺跡調査地/同報告書>
岩井・大沼遺跡調査地/同報告書s-.jpg
<岩井・大沼遺跡出土品/同報告書>
岩井・大沼遺跡出土品/同報告書s-.jpg

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