「晴子情歌」の野辺地  6

晴子が「ハル」と呼ばれて女中奉公した福澤家は、

―福澤の石造りの社屋も
福澤の屋敷の前に立ったとき、その赤レンガ造りの門柱の
隣の通用門、と云っても初めて見たときは見上げるほどの大きな鑄物の扉だ・・・
三間幅の巨大な玄関も
幅三間、奥行き二十間の、鰊番屋より廣いと思った通り土間―


という他を圧倒する建築であった。
その福澤家の歴史は、

幕府指定の爲登大豆取扱問屋として始まった福澤家二百年の歴史と・・・、十七代を數えていた昭和十一年のこのとき、福澤は野邊地近郊に小作地九十町歩、小作人二百家族、屋代二十軒を抱え、五十九銀行をはじめ七戸水電、野邊地電気、十和田鐵道、三本木林業、東洋海運、八戸魚市場、八戸製材株式曾社などの株主として租税千五百圓以上を納税している・・・

というもので、
当主の福澤勝一郎の人物は、晴子の目には、

三和土に立った福澤勝一郎は、このとき衆議院議員三期目の五十六歳でしたが、・・・
ソフト帽を取ると黒々とした髪と白い額がくっきりとして鮮やかな、一寸校長先生のやうな厳格で物静かな感じの人物


に見え、

昭和十五年夏代議士を辞任し、
戦時體制で食料増産や建設需要の増加が見込めるいまこそ事業擴大の好機と見て、
事業家として実に機を見るに敏だった勝一郎は、さうして周圍も驚くやうな辣腕を揮ひ、

軍需インフレによる土地價格高騰のうちに先祖傳来の土地の半分を賣り拂った勝一郎の先見性については、いま思へば、どうやら當地の舊習を本心では面倒に感じてゐたらしい勝一郎の直感が成した業だったやうに見えないこともありませんけれども。



晴子には勝一郎は「實は大家の傳統など屁とも思はない現実家」であり、「事業への無垢とも云える意思や熱意」をもった人物に思えたのである。



勝一郎は昭和一九年脳梗塞で倒れ、昭和二十年六月十四日、好物のニッキ飴を一つ気管に詰まらせて他界した。


勝一郎の死は晴子にとって

昨日まで履いていた下駄がふいに見當たらなくなったやうな小さな驚きを覺えたり、・・・あの下駄はどこへ行ったのかしらと考へたり。・・・
勝一郎が下駄なら、弟幸生は萬年筆、妹美也子は櫛あたりでせうか、・・・




福澤家と勝一郎は野辺地町随一の大家「リュウゴイチ野村家」と「八代野村治三郎」の業績がたぶんに投影されていると思われるが、著者高村薫は

昭和二年六月、憲政曾と政友本党が合同して立憲民政党が結成された際に、リュウゴイチや福澤や伊藤は民政派、杉山・中村・嶋谷らは政友派となって、


と周到に別々の家であると書いている。


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