ロシア領アメリカ、シトカとフォート・ロス
ロシア領アメリカでの拠点をコディアック島に置いたシェリホフは、イルクーツク商人として名を成した後、北アメリカへの進出を目指し、1784年にここアラスカ沿岸の地に毛皮交易の為の定住地を開いた。シェリホフの設立した会社を発展させたのが露米(ロシア領アメリカ)会社で、株主にロシア皇帝が名を連ねることで一民間会社から国家的な特権会社に変貌した。本社のあるペトロパブロフスクでの重役会で、故シェリホフの部下バラノフが「ロシア領アメリカ」の総支配人に任命されたのは1802年である。
バラノフは、1500年代に南アメリカのインカ帝国を滅亡させたスペイン軍人ピサロをもじって「ロシアのピサロ」と称したといわれる。そのバラノフは、1802年から1804年にかけてシトカにおいて、先住民トリンギット族と対立し、凄惨な戦闘の末この地を占領しノヴォ・アルハンゲリスク(現在のシトカ)と名付け、ロシア領アメリカの拠点をコディアック島から移した。
<左からシェリホフ、バラノフ、レザノフ/木村和男「毛皮交易が創る世界」から>

<シトカ(1867年頃)/木村和男「毛皮交易が創る世界」から>

シトカでの越冬は、レザノフに食糧獲得状況の切実さを教えた。この冬、露米会社所属の船員や労働者に多くの壊血病者をもたらしたのである。
レザノフのユノナ号は1806年2月越冬地のシトカを出帆し、3月スペイン領サンフランシスコの砦(プレシディオ)を訪れてアラスカへの緊急物資を調達できたが、通商をとりつけるには至らなかった。ここではスペイン本国以外との交易は禁止とされており、しかもスペイン人のカリフォルニアへの進出自体がロシア人のアメリカ大陸への出現に対抗するためのものであったのだ。
その後、露米会社では安定した食料調達のため、カリフォルニアのスペイン統治が及んでいない入り江を見つけ、先住民と交渉し定住者が移民して「ロス砦」(フォート・ロス)が作られている。
<北アメリカ太平洋岸>

<ロシア砦跡(フォート・ロス州立歴史公園>

レザノフは5月にサンフランシスコを後にし、6月にはシトカに戻った。7月には、フヴォストフが船長を務めるユノナ号に乗船してシトカを出帆し、オホーツク港には9月に到着した。ここで下船したレザノフは、陸路サンクトペテルブルクに向かってエニセイ河畔のクラスノスクに着いたが、1807年3月1日その地で病死した。
バラノフは、1500年代に南アメリカのインカ帝国を滅亡させたスペイン軍人ピサロをもじって「ロシアのピサロ」と称したといわれる。そのバラノフは、1802年から1804年にかけてシトカにおいて、先住民トリンギット族と対立し、凄惨な戦闘の末この地を占領しノヴォ・アルハンゲリスク(現在のシトカ)と名付け、ロシア領アメリカの拠点をコディアック島から移した。
<左からシェリホフ、バラノフ、レザノフ/木村和男「毛皮交易が創る世界」から>
<シトカ(1867年頃)/木村和男「毛皮交易が創る世界」から>
シトカでの越冬は、レザノフに食糧獲得状況の切実さを教えた。この冬、露米会社所属の船員や労働者に多くの壊血病者をもたらしたのである。
レザノフのユノナ号は1806年2月越冬地のシトカを出帆し、3月スペイン領サンフランシスコの砦(プレシディオ)を訪れてアラスカへの緊急物資を調達できたが、通商をとりつけるには至らなかった。ここではスペイン本国以外との交易は禁止とされており、しかもスペイン人のカリフォルニアへの進出自体がロシア人のアメリカ大陸への出現に対抗するためのものであったのだ。
その後、露米会社では安定した食料調達のため、カリフォルニアのスペイン統治が及んでいない入り江を見つけ、先住民と交渉し定住者が移民して「ロス砦」(フォート・ロス)が作られている。
<北アメリカ太平洋岸>
<ロシア砦跡(フォート・ロス州立歴史公園>
レザノフは5月にサンフランシスコを後にし、6月にはシトカに戻った。7月には、フヴォストフが船長を務めるユノナ号に乗船してシトカを出帆し、オホーツク港には9月に到着した。ここで下船したレザノフは、陸路サンクトペテルブルクに向かってエニセイ河畔のクラスノスクに着いたが、1807年3月1日その地で病死した。
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