アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 文治五年(1189年)の風景−出羽の三人 そのA 田川太郎行文のこと

<<   作成日時 : 2017/06/09 09:02   >>

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田川氏については江戸期の地方史などで、その館跡や墓所などが伝えられ、さらに説話文学の「義経記」にも登場することから、その伝承が比較的伝えられている。


田川氏が勢力をはった出羽国田川郡は現在の鶴岡市にほぼ該当し、南は鼠ヶ関で越後と接している。

この「鼠」の名は、往時設けられていた関所のちかくにある、一面に穴のあいた岩が鼠に食い荒らされたようなので鼠喰岩と(鼠噛岩とも)いわれた所からつけられたという。
また、べつに弁天島から海岸までに大小の岩石が列をなしたように散在しているのを念珠に見立てて「念珠が浜」と称したということからともいわれている。

関所の位置も時代によって二転三転している。

出羽への道は、このさき温海・三瀬・大山へつづく浜通りとはべつに、小名部・小国・菅野代・田川から鶴岡にでる山手をいく小国街道とよぶ道がある。


鼠ヶ関には「義経伝説」のほかに、源義家の前九年合戦(1051〜1062年)の伝説もある。

それには−越後から出羽に侵入した源義家は、鼠ヶ関付近の金剛山・赤坂山・八幡山・長峰・物見山等の要害に拠って貞任の軍と戦い、二か年の力戦の末、ようやくこれを打ち破り敗れた貞任の軍は小国・鬼坂をへて田川に敗走した(山口白雪著・鼠ヶ関)−といい、
また鼠ヶ関の曹源寺由来記には−義家は軍を率いて越後からこの地に至り、高峰を占領して安倍軍と対陣すること二か年、苦戦惨但(惨憺?)して安倍軍を破った。−とあるという。

 これが、鎌倉軍の侵攻を反映したものかわからないが、「山形県歴史の道調査報告書浜街道」には、鎌倉軍の侵入とあって、−鼠ヶ関から小国・木野俣を通り、鬼坂峠をこえて荘内にはいったと考えられ、これを迎撃したのが藤原氏の御家人田川太郎行文と秋田三郎致文であった。しかし、衆寡適せず荘内軍は大敗し、両将は戦死し梟首された。−とある。


<田川周辺の浜街道と小国街道>
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「田川の歴史」によれば、−田川氏は国から任命された郡司というよりは、郡内にあった国衙領(公領)を支配し、これを掌握する在地領主としてのあゆんでいたのであろう。これら在地領主層は、陸奥・出羽に支配力をもつ押領使平泉藤原氏と結びながらその庇護を受けたのである。−とし、秋田三郎・由利八郎も同様で、遊佐荘に勢力をもった遊佐太郎などもそうであったと、出羽国の在地領主の名をあげている。

田川一族は奥州合戦で、その勢力は減少したもののその後も残存し、いまに伝えられているのだ。
それは、一族の子孫のようすを記した江戸期の「筆濃余理」や「弘采録」にその片鱗をうかがうことができる。


<田川館付近マップ>
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<蓮華寺史跡図/山形県歴史の道調査報告書小国街道>
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また、田川氏には「初代清衡の庶子の出」という伝承もある。

二代基衡には異母兄・惟常(これつね)がいて後継者争いとなり、惟常は越後国に落ち延びる途中、基衡によって誅されたことは知られた史実だ。
今東光の小説「蒼き蝦夷の血」では、小館(こだて)とよばれた惟常が鼠ヶ関で最後をむかえた場面を詳細にしるしているが、さらに北の津軽へと逃げた惟常の幼い子は海峡へ身を投じている。




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