アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 文治五年(1189年)の風景、出羽の三人Bふたりの由利氏

<<   作成日時 : 2017/06/10 08:41   >>

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 文治五年(1189年)9月7日、
志和郡陣ヶ岡に鎌倉軍北陸道方面の将宇佐美平次実政にいけどられた「泰衡郎従由利八郎」が引具されてきた。

 文治六年(1190年)正月6日、
打倒鎌倉の旗を揚げた「故泰衡が郎従大河次郎兼任」を、小鹿嶋大社山毛々佐田に防戦にむかった「由利中八惟平」が討ち取られた。

 この吾妻鏡に記述された「泰衡郎従由利八郎」と「由利中八惟平」がおなじ人物か違う人物なのか識者のあいだでも論がわかれている。


 国道105号線を大仙市大曲から由利本荘市へクルマを走らせていたら、道路端にたつ地名標識のうえにコサージュに似た花が取りつけられてあった。もちろん生花ではなくつくりものだが、ユリの花にもみえずサクラでもなさそうだし、今もわからないまま。

 由理柵・由利郷・由利郡という名は、花の名のユリからきているらしい。由利原から鳥海山下の裾野にかけては、季節になると一面山百合の花が咲き、由利原は文字どおり百合の野原であるという。


<由利本荘地内の国道105号線でみかけた花飾り>
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<歴史の里・院内>
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 伝承によれば、由利氏は鳥海山麓豊岡岱に居住したのち、現にかほ市の院内に本拠をうつり山根城を築いて郡内に勢力をひろげたという。
 文治年間のはじめ頃に、現由利本荘市上直根の真坂氏に攻められて苦戦し、平泉の藤原秀衡に救援をもとめたこともあるという。このころは平泉の家臣化していたということなのだろう。


 文治五年の奥州合戦時、由利八郎がどこで鎌倉軍と遭遇したのかはっきりしない。
 鼠ヶ関で秋田・田川と一緒に迎え撃ったという見方もあり、由利軍はべつに秋田と山形の県境にある三崎峠付近に陣をかまえたと想定する説もある。
 しかし、その裏づけとなる事実はもちろん伝承もみつからなかった。

 この三崎峠は鳥海山から流れ出た溶岩流が海側に突き出た場所であり、さらに西からは日本海からの激しい浸食をうけるという地形で、江戸期でも「馬も通れない」というほどの交通の難所だった。
 その名は、北から観音崎、大師崎、不動崎という三つの岬が並んでいることに由来し、古道はこの三つの岬を越える道であった。
「有耶無耶の関」との説もあり、戊辰戦争では激戦地なったという歴史ももっている。


 陣ヶ岡での有名な問答の後の由利八郎について、吾妻鏡は文治五年(1189)9月13日に「恩赦となったが、それは、勇敢の名声があるからだった。但し、武装は許可されなかった。」(是依有勇敢之譽也。但不被聽兵具云々。)とある。
つまり、捕虜の身を解き放たれたが、武士として生きることは許されなかったとも読める。


 一方の「中八維平」の名は、吾妻鏡の治承4年(1180)8月20日、土肥にむかう頼朝に従う武士のなかにその名があり、治承5年(1181)3月6日にも大中臣能親が伊勢の国から書状を出した相手の名としてみえる。
 いわば頼朝の旗上げから参加した股肱の臣といえる。


 「由利八郎」と「由利中八惟平」は別人のようだ。

 「中八惟平」が奥州合戦後、あたらしく由利郡に恩賞をもらい由利氏をなのったと考えられる。

 由利八郎は一介の地下人(じげにん)として山百合の花咲く由利原で人知れず生涯をおくったのかもしれない。


<ゆりの里から鳥海山>
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<子吉川から鳥海山>
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