アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 衣河関から北へ、六原野を巡る

<<   作成日時 : 2017/08/13 11:15   >>

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胆沢川を五松林橋でこえると川北の東西に横たわるように永栄地内、その北に覆いかぶさるよう永沢地内とつづいている。

金ヶ崎町内では安倍氏・前九年合戦にまつわる伝承は一覧表示するくらい多くあるようだが、平泉藤原氏にかかわる例はすくないようだ。

「銭千石」の伝承は前九年合戦のさい、源義家が胆沢川をわたるときに濡れた銭を干した石といわれる。その石には蹄の跡がのこっている、という特徴がある。
800年前の渡河地点の参考になればと銭千石を「永沢平林」の地名をてがかりに探したがわからず、永沢集会所まえにおかれた大きめの石を撮って大林城跡にむかった。


永沢地内に近い永栄百岡にある大林城には安倍氏の砦跡の伝承もあるが、跡地に建つ県南青少年の家にある案内板によれば

−別に百岡城・舞鶴城といい、葛西氏の家臣柏山氏の居城であり、中世300年以上にわたる胆沢郡の政治・経済・文化・軍事の中心だった−

とある。


六原は台地であり扇状地である。

≪胆江地区の地名を考える≫によれば、
「六原-ロクハラ-」という地名の由来には諸説があります。かつて荒涼とした原野が広がっており、おそらく6つの原野が存在していたということから命名されたとする説が有力です。六原農場(旧軍馬補充部・六原道場)には、「百寄塚」という塚が残されています。安永9年8月、伊達徴山公が鶴野を楽しまれた際の陣所がここにつくられ、その記念として築かれたものです。六原が伊達藩の鷹狩場だったことからも、一面の野原と山林だったと想像できます。

六原は明治時代に入り軍馬補充部の支部を誘致し、現在は農業短大や県立花きセンターなどがある。

古道を探る手がかりがとぼしいため、夏油川が和賀川に合流する「宿」という地区をめざして北へ向かった。

「百寄塚」「千貫石」を訪ねるようと、その道をはずれたが「「百寄塚」にたどりつかない。
史跡標示があるだろう、と軽く考えていたのが失敗の元。千貫石も時間を考えて端折り、和賀城跡運動公園にほど近い「宿」をちょっと歩いて今回は帰ることにした。


<衣川から和賀川マップ2>
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<大林城跡遠景>
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<蹄跡が見える?石>
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<岩崎橋がかかる夏油川>
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