アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 鶴形、二井田、向能代から能代北へ

<<   作成日時 : 2017/09/30 11:20   >>

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9月の中旬、天気予報は晴れだったが午後になって一転しひどい土砂降りに遭遇した。野辺地からは200kmはなれた能代市への往復という距離のせいではないようだった。


「能代の歴史ばなし」によると、文化12年(1815)秋田藩士淀川盛品によって編纂された地誌史料「秋田風土記」に能代市二井田に次のような伝説があるという。

−昔の渟代(ぬしろ)というのは今の鶴形なり。のち二井田が齶田渟代(あぎたぬしろ)となれり。米白川及び諸川が二井田に至れり。故に港となり、のち向能代とかわり、またその後能代に移る・・・」

また別の項には

−むかしは今の能代から鶴形あたりまで海水が入り込み、東能代地区も仁井田の東まで入江になっていて、その岸に沿って3本の巨木がうっそうと茂っていたといいます。一番西はずれのケヤキは周囲10メートルもあり、今の新山(しんざん)神社境内にあったそうです。中央が倫勝寺のケヤキ、東はずれのサイカチの大木は、今の一本木の字名(あざめい)のもとになったようです。−

とあった。


能代港の歴史は古く、齶田、渟代の名が秋田県域の古代地名が歴史上の登場した最初で雄物川河口の秋田営とともに野代営という公的機関が置かれていて軍事的機能とともに、港津をもつ交通上の要衝という機能を重視しておかれたものと考えられている。

しかし米代川下流域では城柵・官衙遺跡や終末期古墳の確実な例は確認されず、大館跡(檜山安東氏城館跡)は『三代実録』の元慶2(878)年にみえる「野代営」の擬定地とされるが、確実な遺物は発掘されていない。



国道七号線を西に、北秋田市薬師山スキー場のゲレンデに描かれた図に目をとめる間もなく能代市二ツ井にはいった。道の駅「ふたつい きみまちの里」は来夏向かい側に移転するそうで工事が盛んにおこなわれていた。

まずは鶴形に、とおもったが国道七号線から右折するタイミングがつかめず、西側から中心部へもどるようにしてはいった。郵便局などがあるところから米代川にちかづくと、目の前が小高い山になっている。
ここに羽州街道案内図が掲示してあって、それにしたがって、民家の裏手にでるとまるで峠越えのような道があった。草刈りもされて歩きやすい道をいくとすぐに渡船場跡の説明板があり、米代川がやや下方にながれていた。そのさきに社や境をまもる鍾馗様や石碑があり、はずれて裏手にいくと崖下に鶴形の家並みが足元にひろがっていた。
この山は標高60mほどの立甲部(たちこう)山というそうだ。


<薬師山スキー場から>
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<鶴形の羽州街道図>
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<米代川渡船場跡>
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<鶴形の家並み>
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東能代駅へいったん立寄り、ここから仁井田白山へむかうと旧国道から左のせまくなった道をいって、奥羽本線をこえた所に地名表示があった。
倫勝寺にクルマをおいて、新山神社までの短い距離をあるいたが、まったく古さや賑やかさの名残りがみあたらない。ほんとうにここが能代の中心部だったとは想像もつかない。
米代川の流れも大きく移ったのだろう、まるで遠い。

倫勝寺の由緒には

−853年(仁寿3年)慈覚大師がこの地を訪れて観世音の木像と地蔵尊の石像各1体を彫って安置。その後、桧山安東氏の菩提寺である華厳宗国清寺を開山したといわれる在天文龍大和尚がこの観世音を本尊として新田山林昌寺を建立。1732年(亨保17年)十三世金丈透鱗大和尚のときに白鶴山倫勝寺(はっかくさん りんしょうじ)と号す。−

とある。


<仁井田の通り>
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<倫勝寺>
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<新山神社>
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