アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 衣の関と衣川

<<   作成日時 : 2018/01/11 14:20   >>

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清少納言(康保3年頃〜万寿2年頃(966〜1025))の枕草子「関は・・・」に
−関は逢坂(おうさか)、須磨の関。鈴鹿の関。岫田(くきた)の関。白河の関。衣の関。−

とあり、衣の関は古くから歌枕の地として知られていた。

ただ、その場所は未確定で関の位置として四ヶ所があげられている。

@ 9世紀に胆沢城が築かれたころ、胆沢鎮守府と多賀国府の管轄領域の境に設置された関は、泉ヶ城跡から400mほど西に行った高速道路沿いに碑があり、これは胆沢鎮守府と多賀国府の管轄領域が、それぞれ国に准ずる扱いであったことを反映している。
初めは西よりの宝塔谷地にあったが、安倍氏が本拠を上衣川からこの地に移したとき、関所も移したという。

A 「奥州観蹟聞老志」に「高館ヲ去ルコト一町(約109m)余ノ山下ニ小関路」とあるが、これは中尊寺の表参道・月見坂の入口付近をさしている。

B 関山山頂にある中尊寺、ここが衣の関だったという。

C いつごろか不明だが、関山の北側に築かれていた関が2kmほど北東の現胆沢郡前沢町の「鵜ノ木」に移されたと伝えられ、現在、鵜ノ木に「衣関(<きぬとめ>」という地名が残っている。


平泉への道/岩手日報では

―ただし、当時の郡境は現在のように厳密には定められていなかったかもしれないし、関には人や物の通関をチェックする施設だけではなく、関守の宿舎や、関を守る兵士の駐屯施設など、さまざまな施設が付随していたであろうから、中尊寺のある丘陵上なども含む部分が、広義の衣川の関だったと考えたほうが良いかもしれない。―
とある。


「胆江地区の地名を考える」では衣川の地名起源について

−江戸時代中頃までの衣川は農地に水を引く堰がなかったため、水量が今以上に豊富で、雪解けや大雨の時期には激流となってたびたび暴れました。恐らく大きな岩などもコロコロと音をたてて流れていたことでしょう。そのためか、この地方に古くから住んでいる人の中には「コロガ(衣河)」と発音する人も多くおります。これはコロに「衣」という字が当てられたのではないかという推定によるものですが、なるほどと思わせるところもあります。−

とある。

衣川の地名は秋田県由利本荘市に「衣川(ころもがわ)」があり、関東の大河「鬼怒川(きぬがわ)」は、古くは「衣川(衣河)」や「絹川(絹河)」の字があてられていた。また、愛知県豊田(とよた)市中心部の旧称を挙母(ころも)といい、古代から中世まで「衣」や「挙呂母」などとも称され、近くには矢作川の流れがある。

これらから推定すると、流れる様子から「ころも川」の名があてられ、それに「衣」の字があてられて「ころも」もしくは「きぬ」と変化したのかもしれない。



前九年合戦(1051〜62)の始まりは奥六郡の主・安倍氏がその南関であった衣川を越えて南方に進出したとして朝廷・国府軍と対立した、とされている。
また前九年合戦の後鎮守府将軍となって奥六郡もあわせた清原氏の居館を衣川地区瀬原遺跡の可能性をおす説があり、安倍氏清原氏ともに衣川以北の地にその勢力をおよぼしている。


ではその境界の意味での「衣川」は衣川の流れをさしているのだろうか?


<衣関と衣川の図>
画像



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