アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 『緑釉陶器』の来た道 野辺地町二十平(はたちたい)(1)遺跡

<<   作成日時 : 2018/05/14 18:37   >>

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<野辺地町二十平(1)遺跡図―同報告書から>
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<野辺地町二十平(1)遺跡遺構配置図―同報告書から>
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<野辺地湾岸に連続する古代の集落図―同報告書から>
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<野辺地町二十平(1)遺跡出土の緑釉陶器―同報告書から>
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<西からみる台地状の遺跡調査地>
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同報告書は、

 二十平(1)遺跡は、環壕の築造工程や出土した製塩土器などの事例から、9世紀後半から10世紀初頭期に形成され、10世紀中葉以降に環壕が築かれて、防御性集落の様相に変化し、大規模集落を形成する。集落は百数十年の間営まれ、11世紀後半に終焉を迎えたものと読み取れる。

 また、この集落は遠隔地との交易交流を示した緑釉陶器や複数発見された祭祀宗教に関連する錫杖状鉄製品などから、相当な勢力を固持した集団と考えられる。

 そして、野辺地湾岸部から下北半島へと直進する東岸域にかけて、(防御性集落が)ほぼ空間がなく密集配置している。この密集度は隣接する横浜町と平内町では忽然と減少し、規模のおいても目立つものではない。
 何故この地が選択されたのか憶測も難しいが、二十平(1)遺跡や向田(35)遺跡などの大規模集落を共有の拠点とする意志疎通の働いた集団の大移動によって構成されたのは間違いない状勢である。

と、述べている。


さらに、報告書の「まとめ」では

 集落が構成される丘陵地勢域の西側を流れる御手洗瀬川に浸食形成された低地帯域は御手洗瀬(みたらせ)という小字古名称が付されている。
 このことから“みたらせ”は『陸奥話記』に記載される「鉋屋、仁土呂志、宇曽利」地名のうちの「仁土呂志」(にとろし)が“みたらせ”に変じたのではとする史料研究者の説を見聞したことがあるが、調査等の進展からあながち空説として軽んじることできない情景が浮上してきている。

と踏み込んだ見解を提示している。


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