アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS 緑釉陶器が来た道−津軽地方

<<   作成日時 : 2018/05/28 12:28   >>

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 緑釉陶器は、青森市内の新田(にった)(1)遺跡からと、旧浪岡町地区の上野(うえの)遺跡の二ヵ所からも出土している。

 新田(1)遺跡は陸奥湾にそそぎこむ新城川の河口手前3kmの右岸にある。
 発掘調査は石江地区土地区画整理事業及び新幹線整備事業に伴い2003年度から始められた。調査対象地が青森平野と丘陵部との境界部分となっている。ちょうど国道7号が遺跡の中央を横断していて、現在は郊外店舗などが国道の左右に立ちならんでいる場所で、出土遺物から10世紀後半〜11世紀代の遺跡と判断されている。
 
 その時代は南方の奥六郡では安倍氏が勃興し始め、青森県東部の糠部(ぬかのぶ)地方には、「陸奥話記」にみえる「カナヤ・ニトロシ・ウソリ」の村があったころと重なりあう。

 2004年の新田(にった)(1)遺跡現説速報には

−東北や関東の地方官衙遺跡のそれに比肩するとしても過言ではない。(中略)これらは、この集落が平安時代も半ば以降の都や関東の社会・文化に通じるような内容をもち、そうした「和人」の”中の文化”を受け入れる一方で、北方の特産物を獲得・出荷して交易・流通活動を繰り広げていた事実を示している。当然のことながら、それを差配する首長級豪族たちが存在して勢力を増し、何らかの統治システムを組織していたと見なければならない。
化外 (けがい)の地と呼ばれた青森の地で、当時内国であった出羽国や陸奥国などの影響が強い桧扇や木製祭祀遺物などが見つかった。−

と記され、同遺跡の重要性を述べている。


緑釉陶器の出土について、『石江遺跡群発掘調査報告書V 第1 分冊 新田(1)遺跡遺物図版編 2010年』
をみると、

土師器・須恵器・擦文・製塩土器・青磁(14c〜15c)・白磁(13c〜14c)・かわらけ(12c〜13c)・
珠洲・常滑・越前・渥美・信楽・瀬戸・瓦質土器
高麗青磁・褐釉(中国産)・天目

などの遺物とならんで、写真と説明文があり、緑釉陶器に詳しい、国立京都博物館尾野氏からの

ー10世紀に入ってからではないか、尾北や美濃の可能性が高い。湘南新道の報告書で東海Cに分類したものに間違いない。−

との説明が記されている。
また、同様に出土した高級品とされる「灰釉(かいゆう)土器」 についても、同氏は「920〜1010年期の幅に収まるが、10世紀後半か。緻密な胎土から美濃産のように思われるが断言できない。」としている。


<新田(1)遺跡全景/いにしえ青森>
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<新田(1)遺跡出土の緑釉陶器>
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 また、木製祭祀具の出土は律令政府や出先機関である城柵とのつながりが考えられるが、同様に木製祭祀具が出土した秋田県能代市の樋口遺跡や北秋田市(旧森吉町)地蔵岱遺跡の内容とは幾分違っていて、その伝播経路は別ではないか、との指摘もある。

 日本海ルートと北上川ルートのどちらの経路だったのだろうか興味深い。


 旧浪岡町の上野遺跡は梵珠山南西の裾野に広がる標高30〜40mほどの低位段丘上の先端に位置し、周辺には沢や溜池が多い。国道7号から西にはいり、国立青森病院の坂を越えていくと平坦地になり、右手に熊沢溜池がある。ため池には岩木山を背景にした図が掲示してあり「吉郷保全会」と名称が記してある。くもり空でも岩木山は近い。

郷山前バス停のところに広い公園があり、石の門柱に「浪岡町立野沢青年学級」と古びたプレートが埋めこまれていた。遺跡地図と照らし合わせると道路の東側にあたるようだ。


<上野遺跡周辺の古代集落跡>
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<上野遺跡配置図から>
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<郷山前バス停から>
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 遺跡は10c前半の集落を主体にしているという。
 北約2kmに位置する寺屋敷平遺跡と中平遺跡は9c末〜10c前半の集落跡、北東2kmにある大釈迦川右岸に沿う丘陵縁辺には山本・野尻(1)(4)(2)(3)・高屋敷館・山元(1)〜(3)と9c〜10cにかけての集落が連続して立地している。

 上野遺跡と大釈迦川丘陵遺跡群の時代は近接するが、竪穴住居・掘立柱建物・外周溝がセットとなる建物跡や井戸跡を伴わない点で違いがあり、出土遺物からも大釈迦川丘陵遺跡群の居住者は移住してきたものらしい。

  南に3〜4kmの十川沿いには、10c後半以降とされる大沼遺跡・宮元遺跡・水木館遺跡がある。また、北方5kmには五所川原須恵器窯跡群が分布している。

 上野遺跡の第15号竪穴住居跡から緑釉陶器片の加工品は、10世紀中葉(950年前後)の東濃(岐阜県多治見市?)産とされる。新田(1)遺跡と同じルートとみていいかもしれない。

 2008 年度の調査では、江戸時代の街道(下之切通)も発見されるなど、古くから交通の要衝だったらしい。


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