アラ・ハバキの「道の奥」廻り

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zoom RSS D 米代川上流域、鹿角の遺跡

<<   作成日時 : 2018/06/26 09:35   >>

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 合掌土偶と天然アスファルトが出会う縄文時代後期(前1000年〜前2000年)の米代川流域には、伊勢堂岱遺跡や大湯環状列石に代表される、大小の配石遺構が多く発掘されている。

 鹿角市西山地区の高屋館遺跡もまた、大湯環状列石と同時期にほぼ同じ意図のもとに営まれた遺跡であると推定されている。高屋館とは中世の「鹿角42館」のひとつで、館主の秋元氏は高屋村名を名字とし南部氏の勢力に押されて秋田領に落ちていったことが知られている。このあたりは北に太田谷地館、南に高瀬館とかいぬま館と中世の遺跡がならぶ地でもある。


 大館からは国道103号と米代川が並走し、旧藩境を越えるころに国道と川は二度三度交差する。男神女神にはさまれた三度目の橋をわたってすぐに国道103号から右折した。このさきで米代川もまた大きく右に蛇行する。JR花輪線の紀の国踏切から西山地区農免道へはいると周りの景色は一変して森の中の道となった。

 ナビに従って、農免道からさらに細く曲りくねった道を谷底に落ちるように下っていく。ふと、このさきに集落があるのだろうかと思ってしまう。上がってくる人がいた、山菜採りのようだった。すぐに民家の屋根が視界にはいってきた。
 右にお堂があり、白色の鳥居の扁額に「観世音」の文字があった。堂の扉が開いていて、中から数人の声が聞こえてくる。お茶飲み話しのようなたわいない雰囲気が感じられたが、祭礼の日なのだろうか。集落の奥の方へクルマをすすめ、花軒田(はなのきだ)川にそっていくと行き止まりとなった。途中までひきかえし、別な方角から農免道にでると、ここのカーブのあたりからが遺跡の第2次調査地とわかった。


<高屋館遺跡図―報告書から>
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<高屋館遺跡から>
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 農免道のはしる高屋館遺跡と集落との比高差は40m〜45mと報告書にあり、調査区の標高は157〜160mの台地上で南から北に向かつて緩く傾斜しているという。
 
 雑木とリンゴ園の高台の一画に広く削られて赤い土がむき出しの場所があった。中世の高屋館の発掘中らしい。河岸段丘のさきまでは足を運べなくて米代川を上から眺めることはできなかったが、花輪盆地のむこうに奥羽山系の山々がよくみえた。

 遺跡発掘調査では縄文時代の配石遺構のほかに、欠失した部分にアスファルト付着がある注口土器が竪穴遺構から出土し、石器・石製品のうち石鏃・石槍・掻器の各1個にアスファルト付着が認められている。


 農免道から久保田橋をわたって花輪の中心街にでる。国道282号をいくとまもなく道の駅の前をすぎて、玉内(たまない)地内にはいり、ふりかえって浦志内川の方からみる遺跡のある位置は国道282号の改良工事のせいばかりではない絶壁にみえた。


<玉内遺跡と国道282号>
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<玉内遺跡報告書から>
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 発掘された縄文晩期の墓域の中には、下部に石槨(せっかく)状の組石を持ち、その上部に日時計状組石を配置した珍しい配石墓などが検出されている。また、これまでにはない崖斜面途中のわずかな平坦面にある竪穴住居跡の発掘という成果もでている。

 崖の上から見られたら、現在の米代川の流路は真下に見えるかと思えるほどに近く見えるだろう。ほかに例を見ない立地から考えると、特殊な役割をもった集落だったかもしれない。

 遺物では石製品のうち、石鏃と石匙にアスファルト付着のものが出土している。



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