啄木の足跡・・野辺地の常光寺とハマナス

わが野辺地町の愛宕公園には、石川啄木の歌碑があります。
1912(明治45)年4月13日、東京にてその生涯を閉じた啄木の50回忌にあたる1962(昭和37)年5月に建てられたものです。

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潮かをる 北の濱辺の
砂山の かの濱薔薇よ
今年も 咲けるや



≪同じ年の11月17日に盛岡駅前の広場に、北に向かって、横長の大きな歌碑が建てられました。
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな 

なお、盛岡駅の「もりおか」の字は啄木の筆跡です。≫


石川啄木は1886年(明治19年)2月20日(一説には前年の明治18年10月27日)
岩手県南岩手郡日戸村の曹洞宗日照山常光寺に生まれました。

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野辺地町にも同じく曹洞宗の常光寺があり、
啄木の母の兄にあたる伯父葛原対月(かつらはらたいげつ)和尚がこの寺の住職であったところから、
啄木も三度わが町を訪れています。

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一度目は
1904(明治37)年9月、啄木19歳。

― 途次野辺地駅に下りて、
 秋涛白鴎を泛ぶるの浜辺に、咲き残る浜茄子の紅の花を摘みつつ、
 逍遥すること四時間。 ―
             前田林外 あて書簡より

二度目は
1906(明治39)年2月、啄木21歳。

 野辺地の常光寺に寄寓する父一禎を訪ねる。
 なお、父一禎にとって葛原対月は妻の兄であり、師僧でもあるのです。


三度目は
1907(明治40)年8月。啄木22歳。

― 野辺地に下り、
  凹凸極まりもなき道を腕車にゆられながら、
  常光寺と申す禅院にまいり・・・―

                宮崎郁雨 あて書簡より





金田一京助はその著「石川 啄木」の冒頭で葛原対月の風貌について印象的に触れています。
京助が幼少の頃、金田一家の菩提寺である盛岡の龍谷寺に参拝したとき
  
-そこに、痩せてほっそりした老僧がいた。肢の長い、顔の小さい、落ち込んだ眼の、きらきらした光が何となく物さびしい感じを与えて、子供心に、蜘蛛のような和尚さんだと思った。-

という。

葛原対月は1871(明治4)年から1895(明治28)年まで龍谷寺の住職でした。
金田一 京助は1882(明治15年)5月5日の生まれですから、ちょうど啄木が生まれた頃の対月伯父の様子です。
対月はまもなく野辺地の常光寺に移り、1910(明治43)年に亡くなります。

11月18日野辺地の葛原対月老僧盛岡にて死す。父の師父にして母の兄なり。
                               (啄木日記より)




野辺地に三度立ち寄り、伯父葛原対月や寄宿していた父一禎となにやら相談する啄木。
十符ヶ浦に一人逍遥して浜茄子の赤い実をかじっている啄木。
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4月の中旬は、愛宕公園の中腹にある啄木の歌碑のまえで、その生涯と歌を偲びたいものです。


ハマナスの歌をもう一句

北の海 白きなみ寄る あらいその
紅うれし
浜茄子の花

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